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漱石は21世紀に読んでも新しい。

 

夏目漱石、現代を語る 漱石社会評論集 (角川新書)

 

夏目漱石著・小森陽一編著『夏目漱石、現代を語る』読了。漱石の5つの講演をもとに小森陽一氏が解説を加えている内容です。まるで「予言者」のように現在自分たちが抱えている働き方、生き方、政治の問題を漱石が指摘していることに対して、驚きと新鮮さを感じました。

漱石はもう古い」という人間もたまに散見します。しかし、「漱石のいったい何を読んでいるのだ?」と感じますね。21世紀においても漱石は新しい。特に「道楽と職業」はちまたのビジネス書の内容を超えているし、「私の個人主義」には強烈に胸を打たれました。

現代風にいえば、この本は漱石のLogmi(笑)。そこに時代を超えて小森陽一氏がコメントを付けたようなものです。漱石の肉声で講演を聴きたかった。難しい顔をした写真が多いけれど、漱石は意外にひょうきんだったかも。あと、前置き長すぎ(苦笑)

内容とは関係ないところに触れると、さすがにわずかな期間とはいえ教壇に立っていただけあって、漱石の講演はうまいと感じました。笑わせる部分はきっちり押さえていて、聴講者を飽きさせない工夫がされています。気遣いもあります。論点も整理されていて分かりやすいと感じました。

「道楽と職業」では、「やりたいことを仕事にする」という21世紀に多くのビジネス書で掲げられているテーマに言及しています。大学に職業学を設ける発想には、先見性を感じました。

漱石は「道楽と職業」の中で、明治44(1911)年の現在、どこへでも融通が利くはずの秀才が懸命に駆け回っているにもかかわらず、自分の生命を託す職業がみつからず、一年も下宿に立て籠って呆然としていることを憂いています。これなどはまさに、現在の就活に失敗した学生や引きこもりそのもの。21世紀も変わりがありません。

自分のためにすることが「道楽」で、他人のためにすることが「職業」という二項対立的構図を描きつつ、漱石は文筆で飯を食っている自分は道楽を職業にしていると位置づけます。小森陽一氏も指摘するように、それが「偶然」であると何度も強調しています。多くの道楽者は、この偶然を忘れてはいけないと感じました。

つまりブロガーにせよライターにせよ、あるいはデザイナーやミュージシャンも、それで飯が食えているのは「偶然の賜物」だと考えます。才能があるから食っているなどと、思い上がっちゃいけない。「やりたいこと=自己の利益=道楽」なので、他人の利益を追求していない。食うことができているのは、それを認めてくれるお客さまが、たまたま存在していた偶然を前提としています。

創造的偶然を発生させようとして、仕事上で職業と道楽の調和をめざすなら、アサーション(assertion)的なアプローチが有効ではないかと考えます。お客さまのオーダーに言いなりになるのではなく、要望を傾聴しつつ、そこに自分のやりたいこと(道楽)を滑り込ませていく。高度なテクニックが必要ですが、そんな柔軟な生き方もあるはず。あるいは現在職業は細分化されているので、自分の得意な分野を選べばいい話です。

「やらされている」と受け身で考えるから、道楽も職業になってしまう。みずからその仕事を能動的に「やっている」自律的思考を獲得できれば、職業も道楽になる。正直、難しいです。しかしサラリーマンを辞めた人間の多くは、その自由に気づいているのではないでしょうか。

「現代日本の開花」では「定義を下すこと」の危険性について語っている部分が印象に残りました。また、日本の開花は外発的という指摘も重要です。海外から輸入したあらゆる外来語や文化、テクノロジを批評性なしに使う現代においてもいえることではないでしょうか。特にIT業界や、マーケティング業界において。

小森陽一氏が指摘しているように、漱石は機械文明を「横着心の発達した便法にすぎない」と批判しつくしたところに、そのとおりだろうな、と納得。「効率化」というけれど、結局のところ根本にあるのは「横着心」だと思います。つまり人間が楽をするために文明は進化しています。

漱石は決まった時間に仕事をしないで、気の向いたときにやった方が成果が出るということも述べていますが、裁量労働制や在宅勤務を先取りした思考ともいえます。マルコム・グラッドウェルの本などに書かれているモチベーション論と大差ないことをさらりと書いているな、と感じました。

加えて漱石個人主義は、自分の個性を発展させようとするならば、他人の個性の発展も尊重しなければならない、という思想が根底にあります。これってアドラーの思想じゃん、と。つまり自分の課題と他人の課題を分けることに他なりません。

現在、話題になっているテーマばかりではないですか。

少し小森陽一氏に批判めいたことを書きます。

漱石はイギリスで示威運動(デモ)をやることを指摘していますが、決してデモを肯定していません。自分はそのように漱石のテクストから読み取りました。漱石自身が三宅雪嶺の悪口を書いたところ「日本及日本人」の彼の子分のような人間が文句を言いにあらわれて、自分は個人主義で批判しているのに徒党を組んで批判する姿勢に疑問を投げかけています。つまり組織的批判活動を批判し、個人主義の徹底を説いている。

あとがきで小森陽一氏が関わった「九条の会」に関して、やや自画自賛とも読み取れる言説がありますが、それは「組織的批判活動」の範疇を超えていないのではないでしょうか。騒ぐだけで終わった奥田愛基氏の活動のように、デモで何かを変えられるものなのか。

漱石は『文学論』を構築しつつ、文明批判を自らの手で作品にしています。つまり文明批評家と作家の二項対立を超えているわけです。奥田愛基氏の発言でうんざりしたのは「政治家にはならないが安倍政権や戦争批判は続ける」という批評家的スタンスでした。なんだそりゃ、気に入らないなら自分が政治家になって悪しき政治を変えりゃいいじゃんか、と。批判だけしているのは、安全な場所から石を投げていることに過ぎない。

つまり批評やデモも大切ですが、本当に世の中を創造的に変えられるのは、作家であり政治家であると考えます。お調子者の知識人がSEALDsのデモに参加して、ポジショントークを展開していましたが、恥ずかしいと感じました。徒党を組んでわいわい騒ぐデモで世の中は変わるんですかね。変わってないじゃないですか。明確な政治的施策を掲げた政治家が変えるのではないか。

漱石は政治家ではなかったけれど、文明批評家的な鋭い見解を、作家として作品に結晶化しました。批評家✕創作者という稀有な存在だからこそ価値があります。そして21世紀の現在、求められているのは「その先の漱石」だと自分は考えるのですが。

 

■参考

logmi.jp

天才!  成功する人々の法則

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嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

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私の個人主義

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