ある朝、ぼくが目覚めるとママがいなかった。
真冬のような雨降りの朝で、リビングのテレビが選挙のニュースといっしょに、46年振りの寒さであることを告げていた。
ミサイルが炎とともに発射されたり、火山が噴火したりする映像じゃなかったので、少しだけがっかりした。こんな朝には、あっちのほうがいいのに。なぜなら、ぼくをあっためてくれそうな気がするから。そうだろ?
テーブルの上には、焦げたトースト。そしてグァバジュース。
持ち物を確認するように、ちらっと朝食を見る。筆箱あり、連絡帳あり、大丈夫、全部揃っている。ただママだけがいない。それだけのことだ。ぼくはパパに訊いた。
「あれ、ママはどうした?」
パパはスマホの画面から目を離さない。
誰かとチャットしているみたいだ。いつものことだ。気にならない。
もう一度訊いてみる。
「ママ、いないの?」
「知るか」
「ふーん」
ぼくはパパとは反対側の席に座って、パンにバターを塗ると半分に折って、真ん中の部分に噛み付いた。冷えたトーストにバターがなじまない。おそるおそる開いてみると日本の国旗のように、パンは歯型とともに、まあるく切り抜かれていた。ぼくは切り抜かれた向こうに見える風景を眺めて、パンをテーブルの上に置いた。そして、ひとくちジュースを飲んだ。
「ごちそうさま」
「なんだ、もう終わりか」
「うん。おしまい」
「そうか」
知るか。
ぼくは頭の中で繰り返す。
知るかってイルカにちょっと似てないか。イルカはいるかいないか。いないだろうな。いや、いないのはママだ。まあいいか。
ぼくは散らばっている教科書やノートやプリントの山から、今日必要なものを発掘して、カバンの中に詰めていった。カバンはすぐにパンパンになった。
「なんだ、おまえ朝に準備しているのか」
「そうだよ」
「忘れもの、しないか」
「しないよ。でも、たまにする。するけど大丈夫」
「そうか」
パパの目はスマホの液晶を見つめたままだ。そんなに大切なものがそこにあるのか。
「行ってきます」
バッグを背負って言った。
「おう」
玄関のドアを開けて外に出る。
外はとても寒かった。真冬のようだ。11月の天気なわけだ。
おう。ぼくはそう言って、息を吐いて手を温めた。
白い息が出た。傘を開くと灰色の空が隠れた。隠れても空はそこにあるはずで、ただ見えなくなっただけ。いろいろなものがぼくには見えない。見えるものもあるけれど、見えないものがずっと多い。そういうものかな、と思う。みんなはどうなのだろう。そんな話はしたことがない。というよりも、する友達がいない。
おう、おう、おう。
水溜まりを避けながら歩く。
同じような傘と制服が、いくつも道を歩いている。
アスファルトは黒く雨に濡れて、ふだんより街全体が重たく感じる。
なぜ学校には行かなきゃならないのかな。ちょっと考えた。よく分からない。学校には面白いものもあれば、くだらないものもある。けれども世界は、面白いものとくだらないもので、できている。
面白いものを選んだ日には気分がいい。くだらないものを見ちゃったときはサイアクだ。何か大切な忘れ物をしたような気持ちになった。忘れ物はイルカだったかもしれない。でも、イルカは家にはいない。いるのは水族館だ。そして今朝は、ママもいなくなった。いずれはパパもいなくなるかもしれない。おそらく確実に。
歌が嫌いだ。
その理由にはいくつかある。
まず、ぼくは変声期を迎えていて、高い音程が出ないから。
音楽の先生がヒステリックで、音楽鑑賞が好きで、ばかでかい音でクラシックをかけるから。
不幸にも音楽鑑賞のときには教室全体が轟いて、揺れて、世界が壊れてしまうんじゃないかと思う。だん!と音のカタマリが振動すると、ぼくは耳がかゆい振りをして耳を塞ぐ。
このあいだ、ネットでソニックブームという言葉を知った。戦闘機が超音速で地上近くを飛行すると、衝撃波によって、ばりばりと家の窓ガラスが割れてしまうそうだ。
音楽は破壊兵器だと思う。
今日は合唱コンクールの日で、ぼくはうんざりしていた。
なぜみんなでいっしょにひとつの歌を歌わなければならないんだろう。パートに分かれて、へんてこなメロディを歌って、うーとかあーとか言わなきゃならないのか、さっぱり意味が分からない。
変声期で高い声が出ないぼくは、高い音は歌わないことにしていた。
もちろん口は、ぱくぱく動かしている。ヒステリックな音楽の先生に「キーッ。あなた歌ってないでしょっ!ちょっとこっちに出てきて歌ってみなさい」と晒し者にされないように。
たとえば「朝がきた」という歌詞なら「あーきー」しか歌わない。そうすると、何だかメロディが呪文みたいになって面白い。ぼくひとりが歌わなかったところで、合唱全体はまったく何も変わらない。なら歌わないほうがいいじゃん。楽だ。
もっと簡単な方法はマスクをすることなのだけれど、マスクをすると「あんた歌ってみなさい」というご指名の確率が高くなる。だから音楽の時間は、マスクはしないことにしている。そうやって、うまく存在を消すのは、とても大切なことだとぼくは考えている。目立ったら負けだ。できれば透明人間になりたい。薄い存在がいい。
合唱コンクールは体育館で行われる。寒い。
パイプ椅子に座って、ぼくは両手をポケットに突っ込み、身体を揺すった。
ぜんぜんあったかくならないじゃないか。拷問だよこれは。やがてぼくらのクラスの番になり、ぼくは虫食いのような歌詞の呪文を唱えて、任務を完了した。パイプ椅子に戻ると、ほっとした。
続いてレイコのクラスの番になった。
レイコは歌わない。ピアノの伴奏を担当しているからだ。
曲は「グリーン・グリーン」。アメリカの童謡なのかフォークソングなのか、そんな感じの歌だ。そこで歌われている「ぼく」は、ある朝パパと人生には喜びと悲しみがあることを語りあって、ふたりの目の前には緑がそよぐとか、そんな内容の歌だ。グリーン、グリーン。ぐりんぐりんの方がいい。
パパと語り合うなんてことがあるんだ、とぼくは思う。
知るか、とか、おう、とか、そんなことしか言わないパパと、どのように語り合うのか、ぼくにはまったく想像できない。まあ、歌詞の世界なんて空想の世界だろう。それに、アメリカではそんなことが流行った時代があったのかもしれない。要するに昔の歌だ。ぼくにはよく分からない。なぜって、アメリカ人じゃないから。戦争をしたがるアメリカ人のことはよく理解できないし、理解しようとも思わない。
彼女のクラスは気合が入っていた。
歌いながら身体を揺らして踊って、楽しそうに手拍子を入れて笑っていた。
こりゃ負けだな、と確信した。彼女のクラスが優勝だろう。当たり前だ。虫食いの歌詞を呪文みたいに歌っている人間が潜んでいるクラスが、賞を取るわけがない。
そんなことよりも、ぼくは鍵盤の上をなめらかに動くレイコの指ばかりを見ていた。その指を近くでみたことはないのだけれど、きっと素敵な指であることは間違いなかった。ウェーブのように流れる彼女の指を見ていたら、拍手で歌が終わった。
ところが、予想に反して優勝を獲得したのは、ぼくらのクラスだった。
なんで?
ぼくらは全員が立ち上がり、学級委員長が舞台の上で校長先生に表彰された。
レイコのクラスは特別賞だった。間違ってるよ、とぼくは思った。こんなのは間違っている。どう考えてもレイコのクラスの歌がいちばんだろう。どのクラスより楽しそうだったし、踊り全体が波のようなものを作り出していて、音を楽しむ、要するに音楽ってこういうことなんだろうな、と感じたからだ。
そこで、気がついた。
レイコのクラスを担当している音楽教師は、昨年、教育実習を終えたばかりの新任の先生だ。いつも長い髪を後ろで結んで、スーツ姿で授業をしている。ヒステリックなぼくらのクラスの先生が職員室で彼女をいつも問い詰める。そのたびに、泣きそうな顔になって「すみません。未熟でご迷惑をおかけして、ほんとにすみません」と頭を下げていた。
そういうことか。
ぼくは腕を組んで目を細めて寸評を語っている先生を見た。
がんばってもがんばらなくても、最初から結果は決まっていたわけだ。ちぇっ。
放課後の音楽室でグランドピアノの前に座って、スマホをタッチしながら、ぽたぽた涙を流していた髪を結んだ若い先生を、ぼくは音楽室の硝子窓ごしに見たことがあった。
そのメッセージの相手がパパであることも、ぼくは知っている。
下校の時間になると、校門の前で赤い傘をくるくる回しているレイコがいた。
ぼくをみつけると、にっこり笑った。
相変わらず前髪をピンで留めて、ほかの女子が校則に触れない程度の化粧に夢中なのに、すっぴんだ。
「優勝おめでとう」と彼女は言った。
「ありがとう」とぼくはお辞儀をした。
そうしてぼくらは、校門を出て帰路に着いた。
レイコはいつもぼくの1メートルぐらい後ろをついてくる。
今日も同じだ。なので、ぼくは彼女がどんな風に歩いているのか知らない。知らなくていいことかもしれないし、知っておいたほうがいいことかもしれない。
ぼくは振り返ってレイコに言った。
「ピアノの伴奏、よかったよ」
「あ、うれしい。見ていてくれたんだ」
彼女の顔がぱあっとはなやいだ。
再び前を向いて歩き始めた。けれども、ふと立ち止まってまた振り返って言った。
「ここにくればいいのに、ここ」
ぼくの横をゆびさす。
「え、いいの。ここがいいの」
「なんで?」
「きみの後ろ姿を見ていたいから」
なんだそりゃ。首を傾げて、また歩き出した。するとレイコが言った。
「あ、ちょっといいかな」
振り返って言った。
「何?」
彼女は小走りに近寄ると、制服の後ろを掴んだ。お互いの傘がかちゃかちゃと音を立てた。レイコの照れくさそうな顔が間近に見えた。こんなところにホクロがあったのか。
「そのまま歩いて」
「は? そのままって、このまま?」
「そう。このまま」
ぼくは前を向いて歩きはじめた。傘が邪魔だった。二人三脚みたいにぎこちない。うまく歩けない。
「ありがとう。もういい」
数歩だけ歩くと、彼女はぼくの制服から手を離した。
「歩きにくいね」
「そりゃそうだろ。雨降ってるし」
胸の前で手を握りしめているレイコに言った。
「ええと、さっきのは何?」
「なんでもない。やってみたかっただけ。雨の日じゃなければよかったね」
「やればいいじゃん、晴れた日に」
「できないよ。恥ずかしいもん」
また首を傾げていると、彼女は言った。
「もういいよ。さ、歩こう。帰ろう」
やがて自分の家とレイコの家に向かう道が分かれる場所に来た。
ぼくは彼女に軽く手を振って、別の道に歩き始めた。彼女もちいさく手を振って応えた。
少し歩いて振り返ると、彼女は生け垣からひょっこり顔を出して、赤い傘を背景に、こちらを見ていた。どれだけ後ろ姿が好きなんだか。ぼくが苦笑してちいさく手を降ると、レイコもそれに応えてさっと姿を消した。ぼくの家は、すぐその先にあった。
家の中は静まり返っていた。
朝食べたままの真ん中だけくり抜かれたパンが残っている。
触ってみると、こちこちだ。パンの耳だけ齧った。ぱさぱさした食感が口の中に広がった。
ぼくは背中のものを床に投げ出して、ソファに座った。
そして今日のできごと、合唱コンクールのことを思い出した。どうでもいいことも思い出したが、レイコの弾くピアノが聴こえきたので気分がよくなった。まぶたを閉じてみる。白い指が鍵盤の上を踊るのが見える。
ふと身体を起こして、彼女が掴んだ制服が気になって確かめてみた。
そこには何もなかった。彼女の気配さえ残っていなかった。探知機が仕組まれていたら楽しそうだと思ったけれど、スパイ映画じゃないから、そんなことはあり得ない。
そのまましばらくぼーっとしていたが、やっぱり自分の後ろ姿が気になって、立ち上がってスタンドミラーで後ろ姿を見た。
よく見えない。
自分の後ろ姿がふだんどんなものなのか、見たことがないから分からない。
不覚であった、と武士のようにつぶやく。
ぼくは幼い頃に足をわずらったので、歩くときにほんのわずかだけ、びっこを引く。
リハビリに熱心に取り組んだので、ほとんど誰も気づかない。しかし、「足、曲がってる!」と歩くたびにママから叱られたので、誰かに後ろを歩かれることが好きじゃない。ゴルゴ13か、と思う。パパが持っていた古いマンガで読んだのだが、スナイパーのゴルゴ13は「オレの後ろに立つな」と死角を取られることを嫌う。生死に関わるからだ。
後ろにも目があればいいのに。なぜ、人間は前しか見られないのだろう。けれども前後に目があったら、どちらに歩いたらいいのか分からなくなりそうだ。きっと近い将来、ゴーグルで後ろも見えるようになるかもしれない。しかし見なくていいものは、見えなくしてほしい。
そんなことを考えていたら気づいた。
レイコに後ろを歩かれることは、ぜんぜん嫌いじゃないじゃん。
再びソファの上に身体を投げ出すと、目をつむって「グリーン・グリーン」の曲を思い出す。音楽の授業は好きじゃないけれど、レイコが弾くピアノは嫌いじゃない。けれども、どんな歌詞だったのか思い出せなくなっていた。いいんじゃないの。それでいいや。
大切なことは言葉なんかじゃない。
いま、ぼくの胸に響いている何かだろう。きっとそうだ。
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