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つぶやきのまとめ。とりとめのない思考を書き綴っています。

いまさら『君の膵臓をたべたい』で号泣、村上春樹さん、小説について考えた。

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

 

いまコロちゃんのおかげで東京は外出自粛。そして雨が降っています。

気がつけばこのあいだ満開だったサクラは既に葉桜になりかけていて、季節がどんどん移ろっていく。来年のサクラはゆっくり眺められるといいですね。でも、来年のことなんて誰にも分からないじゃないですか。もしかすると来年はないかもしれない。なんでもないようにまたサクラの季節がやってくるのかもしれない。

来年、ぼくがここにいるとも限らない。

できればいてほしいのだけれど。

途方もなく長いあいだ、ツンドク本にしておいた本がありました。

住野よるさんの『君の膵臓をたべたい』です。文庫ではなく書籍で。

ぼくはサクラが好きだし、サクラの下で男の子と女の子が別々の方角を向きあっている美しい装丁に惹かれていました。しかしだな、『膵臓を食べたい』というタイトルはインパクトありすぎだろ。だいたい、そうやって煽って内容はありきたりのレンアイ小説というかライトノベルなんだろうな、と勝手に偏見を抱いていました。

そんなぼくがこの本を手にとったのはサクラの季節だったということもあり、仕事で技術的な資料を検証するめっちゃ論理思考と高度な処理能力が求められる案件に関わっていて、脳内がほんとうに殺伐としてしまい、枯渇した思考が論理的思考ではない水分補給を求めていたから。

そんなわけで、何気なく手にとった『君の膵臓をたべたい』。

2時間で読了。そして号泣。

泣いたなあ、久し振りに。ぼろぼろに泣いた。

ぼくはあまりにも感動すると、映画にしても小説にしても音楽にしても、ぼーぜんとして椅子から立ち上がれなくなり、しばらくぼーっとしてしまう性格なのですが、現実に戻れなくて困りました。物語がまるで自分のそばにあって、いまにも、うわはははっと笑う桜良や【仲良しくん】があらわれそうな気がした。

やられました。完璧に。

物語は膵臓を患っている山内桜良が書いている「共病文庫」という名の日記を、偶然クラスでもいちばん地味で、ひきこもり気味で、本ばかり読んでいる少年が拾ってしまうことが契機となります。けれどもその少年は余命一年の彼女にふつうに接する。「そんなことやっていていいの?」などということをずけずけ言う。一方で、山内桜良はクラスでも人気の美少女で、天然ボケのような口調で少年を翻弄し、自虐的なのか何なのか、少年を誘って焼き肉を食べに行ったりもする。内臓が悪いのに。

そのうちに、ふたりでどんどん仲良くなって、クラスで「なぜあの子が根暗な男と?」みたいにうわさされたり、靴をゴミ箱に捨てられていじめられたりするのだけれどいっこうに構わない。それで、ふたりで博多に行っちゃったりする。

博多かあ、となんだか悔しくなりました。

実はぼくは博多には二度だけ行ったことがあります。

しかしながら「行ったことがある」とはいえないかもしれない。というのは、空港と特定の場所を往復しただけの日帰りだったので。太宰府天満宮にもショッピングモールにも行ったことがない。空港から出ている地下鉄に乗る以外には、どこにも行きませんでした。ただ、夕方にラーメンの匂いを嗅いで、無性に食いて―!と思ったことは強烈に覚えています。那珂川に吹いていた夕方の風も忘れられない。それからショッピングモールが東京とは違ってタテに高いのではなく、巨大なほどヨコにひらべったかったことも。

物語の主人公たちのように、博多でデートをしてみたかったものだ。

もっと若くて、おじさんではなかった頃に。

ホテル側の間違いで、桜良と少年はいっしょに同じ部屋に泊まることになるのだけれど、そこでトランプで「真実か挑戦か」というゲームをします。『真実か挑戦か』(Truth or Dare)はアメリカでは有名なパーティーゲームのようで、ふたりでトランプを開いて、大きい数字を開いた方に権利があり「真実か挑戦か?」と訊く。

「真実」と答えたら権利のある人間の質問に対して真実を答えなければならないし、「挑戦」の場合には相手が要求したことに挑戦しなければならない。ものすごく単純化されたカードゲームのようです。

そんな遊びをしながら、桜良は梅酒を飲みすぎてべろんべろんになって立てなくなってしまうのだけれど、少年はそんな彼女を「お姫様だっこ」してベッドまで運ぶ。そして、何事もなく眠って潔白なまま朝を迎える。

ここで「お姫様だっこ」なのですが、女の子にとっては理想なのでしょうか。女の子はお姫様だっこ願望ってあるものなのか?よく分からん。

でも、恥ずかしながら、ぼくもやったことある。

ま、どうでもいいけど。

どこかで読んだ情報ですが、この作品は一度新人賞でボツになり、しかし世に出すべきだ、と作者が屈せずに書き加えて完成させたそうです。文字数制限をこえ、別の賞に提出して受賞したと知りました。作者の信念は正しい。この作品は世に出すべき作品です。そして読めてよかった。

ほかのひとの感想や批評をまったく読んでいないので、別の読み方があるのかもしれません。けれども、自分にとってこの作品は何度も読み直したい作品のひとつです。

そして、個人的には村上春樹さんの『ノルウエイの森』と並ぶ100%の恋愛小説として評価しています。

 作品中でも示唆されているけれど、村上春樹さんの影響やオマージュと思われるシーンがふんだんに使われていて、主人公のメタファ(暗喩)を多用した気の利いた話しぶりは、まさに村上春樹さん的な対話を引き継いだものだと感じました。さながら、桜良は「緑」ではなかろうか、と。一方で病気を抱えている面では「直子」かな、と。『ノルウェイの森』で主人公と直子が交わす手紙は「共病文庫」という日記に形式を変えていると感じました。彼女を押し倒してしまう緊迫する場面もあります。ただ、村上春樹さんの小説と異なるところは、そこで純潔を守ったことではないか、と感じました。

なんでもないようなことで、ぼくはこれが非常に大切なことだと考えます。

村上春樹さんが『ノルウエイの森』で絶対的に犯した過ちと、登場人物の「僕」のどうしようもないダメさと、直子を混乱させた課題の先を示していると感じました。

地味で引きこもりタイプの少年は、桜良という美少女に存在価値を見出されて、人と関わることを学んで変わっていきます。一方で、桜良はいつも自分と戦っている孤独な彼に惹かれて、真逆の存在が知りあい、知り合うことで相互的に支えられ変わっていく。そんな物語からぼくは、根底を貫いている考え方にひかりを見出しました。

この人間の関係性の描き方において、ぼくは村上春樹さんの小説は「いい加減に片付けている」と感じていて、学生時代から納得できなかった。だから20代の頃に『ノルウエイの森』を読んで寝込むほど感動したにも関わらず、嫌いな小説だったんですね。

物語の後半まで少年の名前は明かされず、彼女との関係性によって【仲良し】くん、【噂されているクラスメイト】くん、【?????】くんと変わっていきます。彼はいったい誰なんだ?という推理小説的な試みも斬新だと感じました。

いまの若い方は村上春樹さんの『ノルウェイの森』は読まないと思います。むしろ、「変なファンタジーを書いている作家」のようにしか捉えられていないんじゃないだろうか。というか、かつて村上春樹ファンだった僕自身がそう思っているぐらいです。

しかしながら『ノルウェイの森』自体は素晴らしいので、できれば『君の膵臓をたべたい』とふたつの作品を読み比べると面白いかもしれない。

ノルウェイの森 (講談社文庫)

ノルウェイの森 (講談社文庫)

 

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折しもサクラの咲く時期であり、生きているうちにサクラを見たいという夢を抱いて少年と北海道に旅行する計画を立てた桜良という人物が登場する小説を「いま」読むことができたことに感謝していいます。作中で登場人物が語っていますが、偶然はなく、読書にしても出会うべきときを「選んでいる」気がしますね。

いちばん感動した場面については触れないでおきます。

なんだか神聖なままにしておきたいので。

人間はそんなに強くなく、けれども強くないからこそ笑っていられる人間はすごいと思いました。そして死を意識しつつ、特別な生活を送るのではなく日常を続けることも。

なんと勢いあまって読後に続けて実写映画まで観てしまったのですが、山内桜良を演じる浜辺美波さんはかわいかった。主人公の少年はもうちょっと白くて文学青年タイプを想像していたけれど、北村匠海さんもアリだと感じました。

ついでに原作の「その後」を加えてアレンジしていて楽しめました。あれ、このシーンではこれが重要なのに、と思っていると、あとでそのシーンや台詞が挿入されるなど、なるほどねえ、と感じました。


「君の膵臓をたべたい」予告2

付け加えれば、図書館が出てくるところ、サン・テグジュペリの『星の王子さま』が出てくるところも好きです。

星の王子さま (新潮文庫)

星の王子さま (新潮文庫)

 

ところで、これは諦めでも悲観でもなく、穏やかな気持ちでつぶやきます。

『君の膵臓をたべたい』の読後に痛感したことは、「文章が書ける」と「小説を書ける(物語を創造できる)」は、似ているがまったく別モノだということです。したがってSNSやブログ、コラム、エッセイ、批評が書けるからといって、必ずしも小説が書けるとは限らない。

「文章が書ける」と「小説が書ける」は、「イラストが描ける」と「音楽を作曲できる」ぐらいの差があると思います。文字を使う意味では共通しているとはいえ、脳内で機能させる箇所がまったく違う。方法論もアプローチも違う。もちろんマルチな才能の方もいらっしゃいますが。

ブログ小説という形態もアリかもしれないし、ケータイ小説というジャンルも流行りました。しかし、個人的には疑問を感じています。小説脳とブログ脳はまったく違うのではないか、と。さらにいえば、住野よるさんも兼業作家のようですが、兼業は大いに意義がある気がします。

暇だから「退屈をもてあましてブログやSNSで日記を書く」ことはできたとしても、暇だから小説を書くことはできない、が自論です。漱石は道楽で小説を書いたが偶然それで金を得て小説家になった、みたいなことを言っていますが、彼も教師や新聞社で働いていたわけだし。

感動した作家の作品をあれこれ思い起こしてみたのですが、文体はもちろんプロットや、その背景にある世界観や価値観へのこだわりが半端ではない。そこまで突き詰めていくには「退屈だから」できるもんじゃないだろう、と感じます。もちろん才能もあります。

率直に言ってしまうと、現時点でぼくは「小説を書く仙骨のようなものを、残念ながら持っていない」と感じています。

仙骨というのは解剖学的な骨の部位ではなく、『僕僕先生』という仁木英之さんの小説を読んで知ったのですが、仙人になる素養のようなものです。だからSNSで脳内ダダ漏れの文章は書けるが、小説は書けない。

僕僕先生(新潮文庫)

僕僕先生(新潮文庫)

 

なので、もし小説家になろうとするのであれば、SNSやブログで脳内ダダ漏れさせていないで、小説を書くときにはインターネッツの接続を切って、Wordなり原稿用紙に真摯に向き合うべきではないかと考えます。器用に使い分ける作家さんだっているかもしれないが、それは天才だろう。

一方で、あらためてこんなことも考えました。

生きるということは、祖先や亡くなったひと、疎遠になったひとから学んだことに感謝しつつ、本人に恩返しするのではなく、次世代または別の誰かにペイ・フォワードしていくことではないか、と。挨拶をするような些細なことでいいと思います。それが日常をつなげていく。

既に会うことのできないひとから学んだ大切なことは、そのひとを失ってから気づくことが多いものです。そのときには、いくら感謝しても、もはや恩を返せない。

したがって別の生きている誰かに「恩送り」することで、ぼくらの日常は繰り返されていくはずです。そして、死はいつでも日常のなかにある。いつ世界から消滅してもおかしくないのがぼくらの人生であり、だからこそ明日充実した人生を送るのではなく、いまを充分に生きることが大切ではないか。

そんなふうにして誰かを生かしたり、生かされたりして、日常を送っていきたいですね。

物語のなかで桜良は言います。サクラは散り始めたときに芽を育んで、来年のためにもう用意しているんだよ、と。その言葉がこころに沁みました。