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つぶやきのまとめ。とりとめのない思考を書き綴っています。

【介護日記02】誰かが自分を必要としているとき、孤独ではない。

老人と手をつなぐ:Soseki21ブログ

 

認知症になった高齢の母がいます。思ったよりも介護って大変だなあ、と日々感じました。介護入門段階のとばぐちで、いろいろ困惑しています。そこで、とりとめもなく介護を通じて考えたことを【介護日記】シリーズとして綴っていこうと考えました。

といっても、実質ぼくは母の住む田舎とは遠い場所に住んでいるので、正式には介護を語るのはおこがましいかもしれません。

すべて、母の近隣にある居宅介護の施設と契約して、自宅を訪問して毎日の服薬確認とデイサービスによる食事と入浴、日々の見守りをお願いしています。自宅介護をされている方にとっては「おまえの書いているものなんて、甘ちゃんだろ」とお叱りをうけるかもしれないですね。

とはいえ、自分の体験したことを書いていきたい。一般論ではなく、個人的な体験として記録するとともに、認知症の領域を超えて、高齢社会や多様化する社会について考えるつもりです。

誰もが「まだ若い」「私はひとりで何でもできる」と思っていたいものです。その気持ちは尊重したいですね。それが老化現象の進展をとどめているテンションになっている気がします。ところが、客観的にできていないことが多い。そこで過剰にがんばってしまう。

自分の老化を素直に認めて、誰かに支えられて生きていく共存関係を築けるひとは、とてもしあわせに生きられるのでは。認知症に関わらず、20代でもいえることではないだろうか。要するに、自分ひとりでは生きられないことを認識し、自分のできない部分で、誰かの力を借りることができるひとは強い。

自分のできないことに対して「誰かの力を借りること」「支えてもらうこと」は、「依存」とは異なります。そして共存関係が成立するには、自分もまた誰かを(たとえわずかであっても)支えられる存在であることが必要です。縁と縁を結ぶことで円(サークル)をつくって、それこそ網のネット(ワーク)をつくること。

老後の独居が必ずしも寂しいとはいえないし、孤独がいけないとは考えません。この部分では、吉藤オリィ氏とは異なる考え方かもしれない。しかし、そもそもにんげんは「ひとり」では生きられないですね。コンビニで弁当を買う場合は、自分の食を支えてもらっていると同時にコンビニの存続を支えている。

なので、支える/支えられている相互関係は同等であると考えます。だから最近、コンビニで「ありがとうございました」といわれたときに「ありがとうございます」と言うように徹底しています。店員さんに「ありがとうございました」ばかり言わせていたら店員さんも荒むだろ。ぼくも感謝しなければ。

ささやかだとしても社会の誰かに支えたり支えてもらって「誰かの役に立っている」実感が、お金では代替できない「しあわせなのではないか?」とぼくは考えます。高齢の母がぽつんと嘆いた言葉を覚えているのだけど「誰の役にも立たなくなってしまった」でした。だから近所に花や折り紙をあげていた。

高齢の母は「歩けなくなってしまうから歩かなきゃ」と過剰に歩いて、夜は無理な歩行の足の痛みのために眠れずに「自分で自分を介護」していたわけだけれど、その背景を考えると、歩けなくなって寝たきりになり「支えてもらう(迷惑をかける)」オンリーの生活になることに対する「焦り」ではないか。

高齢の母の「意地でも活動する」ことが問題で、認知症の進行を遅らせるアリセプトという薬から、少し活動を抑えるメマリーという薬に変更したのだけれど、薬の力で母の意志を変えることはできないだろう。また、なぜ介護施設に行きたくなかったかといえば「迷惑をかけたくない」意識があったのでは。

というようなことを延々と介護施設のケアマネさんに相談したところ、提案いただいたのが、デイサービスで食事や入浴の補助をしてもらっているけれど「ボランティアとして、配膳やテーブルを拭くなどしてもらえないか?」ということでした。つまり、支えてもらうだけでなく「支えている仕事」を任せる。

高齢の母があまりにも聞き分けがないので「訪問介護もデイサービスもやめだ!」とブチ切れていたぼくは、このアイディアにがつんとやられました。その発想はなかった。早速、母に電話をかけると「いいよ。それぐらいならできるよ。私やるよ」と。介護施設には行きたくない母が180度変わった。

障がいがある方も、高齢者も「迷惑をかけてすまない」「ありがとう」と思っているはずで、ただその思いばかりだと「自尊心を削るだけ」でどんどん気持ちが落ち込んでいく気がします。しかしながら「自分も誰かの役に立っている」という気持ちがあれば、それが「生きがい」になって笑顔になれるのではないか、と。

「注文をまちがえる料理店」が話題になっていたけれど、認知症だからといって、すべての高齢者に「静かに余生を送って無理をしないように」と行動を抑制するのではなく、お金を稼がなければ生活を維持できない状態にある場合は除いて「誰かの役に立ちたい」という動機が「生きがい」に通じるのでは。

若者は基本的に「やりたいことをやろう!」でいい。体力もあるし、その熱意や夢が新しい未来を拓く。しかし、若者の労働市場創出とともに高齢者の労働市場もつくらなきゃならないと考えますね。そのとき若者のように体力はないので「年取っちゃったけど社会を支えている」仕事がよいと考えます。

つまりぼくが言いたいのはこういうことです。

 

ネット上の匿名でも、実際に会った人間でも構わないが

「誰かが私を必要としている」

と感じたとき「孤独は消える」のではないだろうか。

 

吉藤健太朗(オリィ)氏の『「孤独」は消せる。』という本は、まだ読んでいないのだけれど、そんな風に感じています。

 

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「孤独」は消せる。

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