Lifestyle Innovation | Soseki21

つぶやきのまとめ。とりとめのない思考を書き綴っています。

インタビューの醍醐味は「意外性」の発見だと思う。

インタビュー風景:Soseki21ブログ

 

嘉島唯さんが書かれたnoteの坂本龍一さんのインタビュー、面白いと思いました。個性など自分にはなくて、退屈だから音楽をつくる、と。また音楽で誰かを感動させることについて「それは……病気だよ。すごく恥ずかしいこと。誰かを動かしたいだなんて。音楽で世界は救えないし、癒やしもしない」も。

note.com

ところで、インターネッツによって「総表現社会」が到来する、ということを主張されたのは梅田望夫さんで、2006年に発行された『ウェブ進化論』という著書のなかにその言葉があり、当時注目されました。

ちょうどブログが盛り上がりつつある頃で、その当時の「表現」といえば日記やブログ、つまりテキストによる表現でした。しかし、現在は文章に限らず、自作の音楽、音声による番組、映像やアニメーション、ゲームなどさまざまな表現があります。さらにYouTuberやVTuberなどのように、動画によるエンターテイメントをつくってしまう個人も登場して、表現の幅は拡大しています。

せっかく作ったものだから「多くのひとに見てほしい」「聴いてほしい」「読んでほしい」と思う気持ちは当然でしょう。ぼく自身もそうだ。

けれども「宣伝屋さん」になって、ほしがるばかりで他人から「奪う」人間になってしまったら、逆に求められないのではないか?と考えます。うざったいので。

先日、J-WAVEを聴いていたところ、クラウドファンディングで広告を募る活動をしている方がゲストで、渋谷109のOOH(屋外広告)つまりディスプレイに広告表示するのは1,000万円以上という話をされていました。

サッシャさんと増井なぎささんが「そんなものなんだ」のような話をされていましたが、たとえばYouTuverや投資家になってがつんと稼いだならば、1,000万円ぐらいのお金はなんとかなるかもしれません。つまり、企業でなくても個人が「個告」として、その広告を使うことも考えられます。そのことに意義があるかもしれないし、まったく通行人に見過ごされてしまうこともある。

そのクラウドファンディングで広告を展開している方は、広告を「広くコクる」と再定義していたのだけれど、広く告らなくても「狭くコクる」つまり「狭告(きょうこく)」があってもいいと思うんですよね。なんてことはない、One to Oneマーケティングの時代から言われていたことです。新しくはない。

同様に、何千人ものフォロワーがいて、何百ものふぁぼがついたとしても、精髄反射的にフォローと「見た」もしくは自分のタイムラインに誘導するためにふぁぼすることが目的だとしたら、それは「ロイヤルティ(忠誠心)」や「つながり」があるとはいえないのではないでしょうか。単に利用されているだけかもしれない。

むしろたくさんの人間に広くコクらなくても、確実に深く交流できるファンを獲得し、そこで盛り上がらせれば、自然と「なに?なに?なに?」と拡散させる方法があると考えます。つまり、ひとりのこころを打てば、それが共振して拡がっていくことだってあるわけです。

ただ漠然と「広くコクる」ことをしても、一過性のものだったとしたら人間はすぐに忘れてしまいます。しかしながら、狭告(きょうこく)だったとしても、持続的な関係性をつくることができれば、いわゆるマーケティング用語でいうLTV(顧客生涯価値)を得られる。長期間に判断すれば儲けが出るような関係性(Relationship)も築けます。

ある駅全体のデジタルサイネージをジャックするOOHや新聞で全段広告を打つような「企業でやりがち」な施策を真似して、瞬発的で集中投下による広告ではなく、地道にコツコツ投資していくことで利益を生む「狭告(きょうこく)」が効果を生むこともあるのではなかろうか、と考えました。

変化の激しい時代だからこそ、逆に意義があるのでは。

あまり熱くならない「脱力感」も大切だと考えます。

もう昭和じゃないんだからさ。

でっかい志を抱くより、等身大かつ個人的に没頭できる楽しさを追求すると、それが実は新しい世界を拓くことがあるのではないか。そこで冒頭に書いた、嘉島唯さんによる坂本龍一さんにインタビューしたnoteの話に戻ります。

「退屈だから音楽をやってる」「音楽で世界は救えないし、癒やしもしない」と坂本龍一さんはおっしゃっている。そんな脱力感が必要かもしれない。

ただ個人的に坂本龍一さんの音楽は「すごいかもしれんが、ときにつまんねえなあ」と感じることがあり、その本質を嘉島唯さんは、あばいていると思いました。

要するに坂本龍一さんにとって音楽は「退屈を埋めるもの」「商業的に金を稼ぐ手段」なのかもしれないと嘉島唯さんが取材して執筆したnoteからは、そんな印象も読み取ることができます。同じような印象を、世界に飽いたなどと詩に書く谷川俊太郎さんにも感じたことがありました。ある世界を究めると、そういう「傲慢さ」に至るのかもしれない。

ぼくは坂本龍一さんや谷川俊太郎さんのような人間には至るすべもなく、凡人の戯言ではあるのだけれど「退屈だから音楽や詩を作っている。でも稼いでいるんだぜ。ドヤ」のようなプロになるのであれば「永遠のアマチュアでいいや」と思う。音楽も詩も退屈ではないし、楽しいからです。儲からんけどな。

いま、坂本龍一さんや谷川俊太郎さんのような大御所に身のほどしらずの批判をかましたわけですが「じゃあ、お前はどうなんだ?」と自問して考えたのは、自分にとって文章を書くことも音楽をやることも「ハミガキみたいなもんだな」と。生活の一部で、けれどもそれをしないとスッキリしない。

なので、他人はどうであれ自分は「ハミガキをするように文章を書き、音楽をつくっていきたい」と考えました。そうすれば、心身ともに健康な日常生活を送ることができるのではないかな。些末なことかもしれないが大切。

いやーほんとに歯は大事です。食べるために必要だもんね。

ということをツイッターでつぶやいたところ、「退屈だから音楽をつくっている」「誰かを動かしたいだなんて。音楽で世界は救えないし、癒やしもしない」というのは、坂本龍一さんのクセでもある「テレ」ではないか?というご指摘をフォロワーのかたからいただきました。

うむ。その可能性はありますね。というよりも、きっとそうだろう。

あるいは、映画音楽に関していえば、久石譲さんが『感動をつくれますか?』という本を書かれているので、ライバル意識というか(批判したい気持ちというか)そんな感情から発した言葉かもしれません。

感動をつくれますか? (角川oneテーマ21)

感動をつくれますか? (角川oneテーマ21)

  • 作者:久石 譲
  • 発売日: 2006/08/01
  • メディア: 新書
 

坂本龍一さんに批判的なことを書きましたが、ぼくは彼の大ファンです。

以前、世界各地をツアーしながら、当時としては斬新なインターネッツを使ってストリーミングによるリアルタイム配信のライブをしたときにも、その時間にPCのディスプレイにしがみついて聴いて、感動したぐらいです。

嘉島唯さんの取材記事でも、坂本龍一さんは雨の音を聴いたとき、バケツをもってきてキラキラ目を輝かした、という部分はすごくよかった。純粋に「音」を「愉しむ」かたなのだろう、と。だから、「音楽をつくるのは退屈だから」「感動をつくるなんて奢ったこと」という発言は、謙虚さから生まれた言葉だと思います。

ツイッターのフォロワーさんから、坂本龍一さんはかつて「ピアノの一音を消えるまで聞いていたい」とおっしゃっていたことを教えていただいたのですが、いいなあと感じました。

冒頭で取り上げた記事にも書かれていますが、老いて指が動かなくなって1音しか出せなくなっても、それは「坂本龍一さんのピアノ」だと思います。アルヴァ・ノトとのコラボでも感じました。1音の響きに教授の音楽に対するひたむきさを感じます。


Alva Noto Ryuichi Sakamoto Live in 2012

では、なぜ、ぼくは批判的な気持ちになってしまったのか?

嘉島唯さんのような著名なインタビュアーのかたに物申すのは非常に僭越な話ですが、 しかし、インタビュアー自体の「坂本龍一の音楽は感動を生んでいる。すごいんだ」という「思い込み(主観)」を押し付けようとしているから、この記事は変な具合に読めてしまったのではないか。ぼくだけかもしれないけどね。

大物をインタビューし続けたインタビュアーの「奢り」が人物像を歪めているのかもしれない。

テレであったとしても坂本龍一さんクラスの人間は言葉を選ぶべきじゃないかとは考えますが、そんな言葉を引き出してしまったインタビュアーの嘉島唯さんが、いかがなものか、と。

インタビュアーの主観を交えた取材記事が増えていて、かつてある映画俳優のファンのライターさんの記事を読んだときは、会えた!というドキドキ感が伝わって、読んでいて笑顔になりました。しかしながら、大物を取材し続けたあまり「主観」をインタビュイーに押し付ける奢った取材は人物像を歪める。

どんな取材であっても、取材するときには「仮説」や「落としたいストーリー」があるけれど、それをぶつけたままでは誘導尋問になります。むしろ「そうじゃない」と否定されたり、わずかな拒否反応を見逃さずに、自分が想像しなかったインタビュイーの人物像を発見することが、大切だと考えています。

しかし、だからこそ取材するときには、あらゆる仮説を用意しなければならない。

インタビュイーが思いもしなかった側面から突っ込むことによって、ホンネや本質を引き出すことが大切ではなかろうか。そんな気がしますね。ものすごい事前準備と想像力が必要で、簡単にできることではないのだけれど。

おそらく「傲慢」な人間が取材をすると、取材される側(インタビュイー)のなかに傲慢さを見出して、それが文章になる。

ほんとうは謙虚で誠実なアーティストであっても、傲慢な人間の側面だけを切り取って、文章に落とし込んでしまうのではないかと感じます。むしろ主観を色濃く出すよりも、無色透明で「他人に擬態できるような人間」の取材のほうがぼくは好みです。自分を捨てられる取材者のほうが好み。

逆にブログであれば、ビビッドな主観で塗りたくった文章がいい。もちろん誹謗中傷はいけませんが、「広報部が校閲したかのような無味乾燥的な文章」や「SEOばかりを意識して、目次の構造化を徹底し、キーワードを見出しの最初に配置したような有用な知識」を個人が書いてもつまらんだろう。そんなもんは企業のオウンドメディアに任せたらいい。

人間は生成変化するものであり、同じ人間であっても、会うたびに違う側面をみつけられるような関係でいたい。だから、ぼくは同人クラブや同窓会があまり好きではないのだ、と考えています。というのは「同質性を確認して安心する」ための集まりでしかないからです。想定外になっちゃうと疎まれるのが嫌なんですね。

インタビューにしても他者との関わりにおいても「主観という枠組み、もしくは一般常識という理解できる範疇」で相手を括ろうとする人間こそが傲慢であると思うし、そこをはみだしちゃっても別に「ああ、はみだしちゃったね」ぐらいに平然としていられるのがいい。咎めたりアドバイスせずに。

最近思うのは、インタビュー能力はライターさんのような職業の人間が持つべき特殊なスキルではなく、あらゆるコミュニケーションで必要だということです。相手の話を聞いて、ちょっとでも違和感や分からない言葉があれば「それってどういうことですか?」とスルーしないで尋ねる。細部にこだわる。

集中して誰かの話を聴くのは、ぼくの場合は1時間半から2時間ぐらいが限界ですね。ノートにメモしながら聴くので、ヘトヘトに疲れます。その後は、もうぼーっとしてしまう。話すことも大変だと思うけれど、聴くことに徹するのはさらに大変で、カウンセラーさんなどは尊敬しちゃいます。すごいと思う。

日頃いろんなことに疑問や好奇心を持っていると、耳から入ってくるあらゆるものをスルーできなくなるんじゃなかろうか。

音楽も同じで、洗濯物を干しながらJ-WAVEを聞いていても「ん?何これ!」と思うと、ぱんつを洗濯バサミに挟むのを中断して、すっとんでパソコンでJ-WAVEのサイトを開いて、誰の何という曲か調べます。

J-WAVEのサイトでアーティストと曲名が分かると、次はYouTubeで検索します。

さらに気になった箇所を何度も繰り返して聴く。はやく洗濯物を干せ!って話ですが、そのときやっとかないと忘れちゃうんですね。どうしても時間がないときは、専用のメモ帳にメモしておいて、あとでじっくり調べます。

そんなふうに気になった何かを調べることが習慣になっているんですが、人生に役立っているかというと、よく分からんのだな。ぜんぜん役立っていないかもしれん。とはいえ、役立ったり儲かったり成長したりする目的ありきでやっていたら、窮屈でしょうがないんじゃないかと思います。役に立てようと思わないから習慣化できるわけで、その習慣自体が楽しい。

人間の好奇心や疑問は、基本的に何かの役に立てるためにあるのではなく、人間の本能的なものだと考えています。誰かと知識を競うためにあるのではなければ、金を儲けたり、権威を得るためにあるのではない。役に立たない「冗長」なものがあったほうが人生は楽しいし、豊かになる。

誰かと会話をしていて、ふと疑問に思うことがあったら、

「それってどういうこと?もう少し詳しく聴きたいな」

と、手でエアーマイクを握りしめて相手に向けてみる。コミュニケーションのきっかけは好奇心であり、誰もがインタビュアーであり、インタビュイー(質問されるひと)であると考えます。

 

+++++

「宣伝屋になってはいかん!」といいつつ、最近作った曲の紹介です。14年前に作った曲を、いまだに毎年アレンジを変えていじっています。サクラサクは、かつて電報のあった時代に「合格したよ」を告げる意味がありました。季節限定の曲ですが。