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つぶやきのまとめ。とりとめのない思考を書き綴っています。

「はてなが大嫌いだ」と言われたら、どう思いますか?

大嫌いだ:Soseki21ブログ

東京は雨模様の日々が続きましたが、今朝は雲が多いけれど、よい天気でした。太陽のひかりが眩しい。植物ではないけれど、光合成して元気になりそうだ。相変わらずCOVID-19で世界全体が曇りがちです。けれども、おうち(Inside)は快晴でありたい。

30分という時間制限を設けて、ブログを書こうと思います。

先日「Twitterが大嫌い」というブックマークをいただいたので、コメントを非表示にしました。何を書いても構わないけれど、そのコメントは、すべてのTwitterを愛用する人間に対する「誹謗中傷ではないか?」と感じました。

はてなが大嫌いだ」と書かれたら、どう思いますか?

さらに同様のブックマークが続くようであれば「はてなに通告」いたしますので、ご了承ください。ご自身へのブログに導線を貼るために、こんなブログにもマーキングの努力をしていらっしゃるかと思いますが、おしっこをかけて去っていくのはやめてください。

はてなの村に住むみなさんが、高度なコミュニケーションスキルを必要とするTwitterで挫折して、ちいさな村にこもって、漫画について語ったり、お互いに傷を舐めあっていたりする状況も分からなくはない、仕方ないよねと思います。温室のような「はてな」は居心地がいい。喧騒から離れてのんびりできます。ぼくも最高だ!と痛感しています。

しかし存続できなかった世界に対する劣等感は醜いと感じました。

ぼくは、残念なことに博愛主義者のような偽善者ではないので、スターをいただいたとしても読みたくないものは読まないし、くだらないブログの購読を続けるつもりはないという持論があります。どこかで勝手にブログを書いていても、ぜーんぜん構いません。しかし、過去にどんなに関わらせていただいたとしても、断捨離すべきときにはすぱっと購読解除させていただきます。

はてなであろうがTwitterであろうがつながりたいひととつながりたい。つながりたくないひととは関わらない。シンプルかつミニマムでありたい。読者であることは主体的なものであり、購読を外すのも続けるのも、ブロックすることでさえ読者の自由でしょう。忖度して続けても、あまり意味がないと思っています。ただでさえCOVID-19で消耗する現在、ネットの世界で消耗するのは避けたいものです。

ぼくがつながりたいひととは「自分の言葉で日々の生活を訥々と語り、何気ない時間を大切にするブロガーさん」でありツイッタラーさんです。

はてなであってもTwitterであっても、そういうひととつながってきて、なんでもない日常生活を豊かにできました。そういう素晴らしいかたが、Twitterにもたくさんいらっしゃいます。

もしTwitterで、素晴らしいかたをみつけられないとしたら、自分自身のセンサーの感度が高くないこと、素敵なものを見抜く能力がないこと、メガネが曇っていることを見直したほうがよいと思います。

暗闇でサングラスをかけていたら、世界は何も見えない。

そもそもぼくは、自分の劣等感や自尊心の不足を満たすために特定のクラスターをこきおろして満足しようとする方々を評価していません。カリスマもしくは村、義理でお返ししたスターやアクセス数に依存して「オレ/私って凄い」と作家気取りで勘違いしているブロガーは支持しないつもりです。

ぼくは特定のブロガーのエントリに対して、「この記事は不愉快だと感じました」とコメントすることがあります。けれども、なるべく感情を抑えて熟考した上で言葉を選んで、勇気を出して書いています。

感情的に煽るように読めてしまったとしたら、自分のスキル不足かもしれないですね。とはいえ、ミハイル・バフチンの思想などを大学時代に学んだ自分としては、解釈の多様性を認めていたい。

しかしながら「あなたが大嫌いだ」もしくは「だから、Twitterはてなは大嫌いだ」と書かないように気をつけています。いや、実際はそう思うことが多々あるのですが、それは書いてはいけないことでしょう。それぐらいの矜持はある。

というのは、ブログに書いてある内容は、そのひとの人格もしくは生活の一部を切り取っただけに過ぎず、ひとつの言葉から揚げ足取ってそのひとの全体がわかるものではないし、ひとつのエントリだけ取り上げて「ああ、こいつはダメだ」とはいえない。

さらに、SNSはツールに過ぎず、ユーザーの使いこなし方次第で、ゴミだけ収集する錆びきったツールになることもあれば、年齢を飛び越えて人生の教師に出会えるキラリと輝いた優秀なツールにもなると考えています。

使い方はもちろん、書かれた言葉やユーザー、そして情報は「氷山の一角に過ぎない」という認識です。

レトリックの手法として考えると、部分を拡大解釈して全体に置き換えるのは、提喩(シネクドキ)的な偏った考え方にとらわれている印象を感じました。

提喩について解説するのは難しいのですが、たとえば「サクラの季節がきた」は、サクラという花として「部分」を取り上げることで、春という「全体」について比喩で表現しています。このように「部分で全体を語ること/全体で部分を語ること」が提喩です。

レトリックは弁論術のひとつであり、実は現実を歪めてしまう危険性をはらんでいます。提喩的思考の危険性とは、部分を全体に置き換えてしまうことである、と自分は考えます。

たとえば前述した「サクラの季節がきた」としても、必ずしも「春がきた」とはいえない。さくっと言われてしまうと「そうか」と納得して思考停止するのですが、懐疑的になると「サクラの季節がきた」からといって「春がきた」とはいえない可能性があるぞ?と気づきます。

もっと分かりやすい文章でいえば「クリスマスはあったくして過ごそう」と言った場合、日本のローカルでは通用しますが、真夏にクリスマスを迎える南半球のオーストラリアでは「はぁ?」ということになりませんか。そういうことです。

読者数が減少するのは、一部のはてなのみなさんにとっては「恐怖」だと思っています。もしかするとアドセンスの収入に多大な影響を与えて、ささやかなお小遣いが減ってしまうかもしれない。自尊心を満たすための「信者がいなくなってしまう」と、精神の均衡を失って凹むブロガーさんもいらっしゃるのでは。

でも、そんな執着こそがバカバカしいことです。

ぼくは(15年前から、はてなを使ってきて)その段階は通り越してしまいました。執着すべきことは読者ではなく「ブログの内容(コンテンツ)」ではなかろうか、と。

読者数が多いから、スターがたくさんついているからといって素晴らしいブログとは限らず、ゴミのような日常を書き綴って、温床のような世界で首まで生ぬるい水に浸っているような記事がたくさんあります。

それが正しい、間違い、善である、悪である、のような判断はできないし、そういうブログが存在してもよいと思いますが。

いま、COVID-19に関する情報によって、パニックを起こしたり、不安にとらわれてスマホやパソコンの画面から離れられず、場合によっては「海外ではっ!」と正義を振りかざして、怒りからリサーチせずにはいられなくなり、誰かれ構わず罵倒しているかたがいらっしゃるようです(というか、現にいた)。

とはいえ不安にかられて、いたるところにおしっこを撒き散らすのは、公衆衛生上よろしくありません。ネットの世界はもちろん、リアルの世界にもいえることではないでしょうか。

今朝、Twitterでフォローさせていただいているかたが、自粛のときだからこそ普段できないお掃除をしようと考えて、スマートフォンの不要なアプリをざくっと削除して初期化したというツイートをされていました。「Hallo」と表示された画面が、すがすがしかった。そんな風に、毎朝「おはよう」とさわやかな気持ちでコミュニケーションできる、素敵なかたがTwitter「にも」いらっしゃいます。

そのかたに教えていただいたのですが、日本赤十字社さんのYouTube動画は、自分のために観ておきたい動画だと感じましたので、ご紹介しますね。


【日本赤十字社】「ウイルスの次にやってくるもの」

自分のこころの弱さから、恐怖にかられたウィルスを撒き散らさないこと。ひとりひとりがいま、どう在るべきかを考えることが大切です。

ぼくは、Twitterを愛すると同時に、はてなを愛するものでもあります。

そのどちらにも素晴らしいひとがいる。比較するものではないし、固執するものではない。というのは、自分がネットの市民(ネチズンnetizen)であると考えているからです。

それぞれのユーザーであることを誇りに思い、村のなかにおける多様な意識を尊重するのであれば、他の国を罵倒するのではなく、その国にも素晴らしい誰かがいることを忘れないでいたい。

結局、没入していたら時間を忘れて、1時間半かけて3,000文字超えの文章を書いてしまいました。さて洗濯物でも干しますか。外では鳥の鳴き声も聴こえます。

今日も穏やかな一日でありますように。