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つぶやきのまとめ。とりとめのない思考を書き綴っています。

「TIFFANY」ルール、書き続けるためのブログ論

BLOGとパソコン:Soseki21ブログ

 

ブログは書くことの実験の場であると、ぼくは考えます。

実験の場であるからこそ、丁寧な挨拶からはじめてもいきなり本題から入っても構わない。改行して短文を連ねても、ブロックで長文を書いても問題ありません。ルールや作法というものはあるようでないもので、あるとすれば自分だけのルールでしょう。

ブログに関わらず、自分ルールを定めることは、生活を豊かにするコツのひとつではないかな、と感じています。

たとえば、ぼくがブログで自分ルールを定めるとき、以下のような視点からルールを検討します。

  • 時間Time)→書く時間、早朝なのか深夜なのか
  • 大切Important)→そのエントリは記録すべき大切なことか、そうではないか
  • 頻度Frequency)→毎日書くのか、書きたいときに書くのか
  • 友達Friend)→読んでほしい誰かのために伝えたいことが書かれているか
  • 記念日Anniversary)→ブログ開設◯周年、記念日を刻んで残す
  • 必要Necessary)→必要なことか(書かなくてもいいことは書かない)
  • 肯定Yes!)→自分を含めて過剰に批判しない、世界や人生を肯定する

頭文字をとるとTIFFANYティファニー)」ですね。

いや、頭文字から考えたので、そうなるのは当然なのですが(笑)、これが「自分だけのブログのルール」です。誰かに強制するつもりもないし、拡散はいりません。ルールを押し付けるのも押し付けられるのも嫌いなので、ルールを定めるための視点だけ提示しました。

このようなルールをつくることで、ぼくの場合はブログが世界で名だたる宝飾店のショーウィンドウのように、きらめきに満たされること」を理想とします。

ちなみにルールにブランド名称を用いていますが、トルーマン・カポーティの原作でもありオードリー・ヘプバーン主演で有名な『ティファニーで朝食を』をオマージュする意味を含めました。

宝石店のティファニーは映画公開から56年後の2017年に、店舗にダイニングスペースを設けたそうです。豪華な宝飾品+食事の場としてのレストランの融合は、生活自体に輝きを与えるという意味で素敵な印象があります。

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

 

ティファニーで朝食を』の映画中で使われている「ムーンリバー」は、JAZZのスタンダードとして親しまれている名曲です。


ムーンリバー 「ティファニーで朝食を」

このとき自分ルールによって実現する到達点は「理想」であって「目標」や「目的」ではありません。なぜなら、目標や目的は達成したところで努力をやめてしまう可能性があります。けれども理想であれば、どこまでもその状態を維持することを追求するのではないかな。

自分の生活から遠く離れたところに理想郷があるのではなく、さりげない生活のなかに理想郷がある。日常を一定の状態にメンテナンスすることに重きを置く意味では、禅の考え方に近いかもしれません。

ぼくはブログを書き続けながら、自分ルールをアップデートしてきました。

経験を語るならば、かつて会社勤めの生活をしていた頃には残業が多く、帰宅した11時頃から深夜2時頃までの時間をブログを書く時間にあてていました。しかし、自宅勤務で健康重視になり、早寝を心がけている現在、深夜に仕事以外で何かを書くことはほとんどありません。そもそもアタマが働かないからです。

エントリを公開する頻度に関しても、ブログには熱中していた10年ぐらい前には、毎日必ず更新しました。ブログでアウトプットするためにはインプットが必要だと痛感して、年に100冊の本を読む、50本の映画を観る、50枚の音楽のアルバムを聴くことを自分に課していたこともありました。

そんな生活をしていた頃には、書くことがなくなっちゃうのが恐怖でしたね。

しかし、いまはやっていません。というのは量じゃないと気付いたからです。また、仕事でストレスが溜まるのに、プライベートの時間まで追い詰められて書き続けるのは不健康極まりないんじゃないかなと感じています。

といっても、ある時期、自分で課題を与えてストイックかつ集中的に課題をこなす訓練をしてもよいでしょう。制限時間を決める。必ずこれだけの文字数を書くそんなルールを課すことでゲーム感覚の達成感が得られます。

気をつけなければならないのは「できなかった、これだから自分はダメだ」と落ち込む性格であれば、やらないほうがいい。かなり自分はそういうタイプで、自己評価を下げまくっていたのですが、その心境では、永遠にしあわせにはなれません。

まず自分のタイプを見極めることが重要です。その自己分析をもとに。叱咤して伸びるタイプであれば、どんどん叱咤して伸ばせばいい。ところが、叱咤すると凹むタイプなら、叱咤しないほうがいい。ハードルを下げて、ちいさなハードルをいくつも超えることを積み重ねたほうが自信になります。

また、自分で課題がみつからないのであれば、はてなの場合は「お題」を利用すると便利でしょう。ぼくはやりません。というのは書きたいことがあったときに書くので、お題が必要ないからです。

現在、みずからの重点項目は「思考と文章のクオリティを向上すること」です。

「毎日書くこと」や「アクセスやスターを獲得すること」ではなくなりました。とはいえ、毎日書くことを大切にしていた時期や、アクセス解析にこだわっていた時期があるので、そういうひとの気持ちが分かるつもりでいます。

やってみれば分かることですが、短文であっても書き続けることは途方もないプレッシャーとの闘いです。しかし、その闘いは決してムダではないと思います。マラソンみたいなもので、続けていると突き抜けるときがある。さらに習慣化したならば、ランナーズハイみたいな爽快感と安心感を得られます。自分自身を鍛えて、強くなれる。

ブログを毎日続けたからといって、偉くもなんともない。けれども、チャレンジしていないにも関わらず批判するひとたちは「損しているなあ」と感じます。

要するに本質的には、何かをやろうとしてもできなかった「敗者」は、実現したひとを批判して自尊心が傷つくのを防御したり、溜飲を下げるものです。そうなっちゃいかんな、と自戒しています。

また、誰かのルールは「参考にしてもよい」かもしれませんが「とらわれるのは無意味」だと考えます。というのは、人間は自発的に変わろうと思わなければ変わらないものなので。

■ 

常識にとらわれずに、ブロガーはもっと自由に書けばいいのに、と感じています。

ブログの体裁にこだわる必要もありません。テキスト(文章)ではなかったとしても、成立するブログがある。数値のメモだってあり得るわけです。動画、音楽、アートだろうが「これが僕の/私のブログです」といってしまえば、それがあなたのブログ。なんでもありじゃないですか。「そう言われても」と困惑されてしまうかもしれませんが、「ブログ作法は基本的にない」ということが、ぼくのスタンスです。

ある意味「文章のインディペンデント・レーベル」がブログであり、メディアなんかじゃない。お金や信用を稼ぐための手段かもしれないが、その手段に留まらない価値がある。書きたいことを書けばいい。しかしながらその一方で、ブロガーとしての品格を保とうとするのであれば、自分のブログに対して誠実であること、矜持を正すことが大切です。「他者のブログ」ではなくてね。

ちなみに、最近はてなをはじめたひとは知らないかもしれませんが、ツイッターが流行った頃、ツイッターを真似た短文を投稿するサービスが、はてなにもあったんですよ。ミニブログのようなコンセプトで「はてな日記」と差別化されていた気がします。「はてなハイク(=俳句)」だっけかな。

結局、それならツイッターでいいじゃん、というような意図でなくなってしまったようです。というより「なんとかナウ*1」みたいな言葉が蔓延していた当時、ツイッターを真似たミニブログサービスがたくさん生まれました。みんな淘汰されて消えてしまい、本家だけが残って現在に至ります。

ブログやSNSを取り巻く環境は日々変化しています。

ところで、スティーヴン・キングの『書くということ』という著作で、彼はプロットを事前に設計せずに、とにかく小説を書き始めると述べています。

書くことについて (小学館文庫)

書くことについて (小学館文庫)

 

物語の主人公を自由奔放に生かそうとするのであれば、たとえ架空の物語であっても現実と同じように、点(プロット)を穿って、作者の思い通りにすべきではない、という考え方にもとづいています。スティーヴン・キングは次のように書いています。「そもそも人生に筋書きなどないから。どんなに合理的な予防措置を講じても、どんなに周到な計画を立てても、そうは問屋がおろしてくれない」。

彼の考え方を知って、ぼくはブログに向かうとき「エントリの全体構想を立てるのをやめよう」と、あらためて考えました。

とにかく真っ白なエディタの一行目から、思ったことを素直に書き出してみる。あとはオートパイロット(自動操縦)的に、書きはじめようと考えました。香山リカさんに『文章は写経のように書くのがいい』という本がありますが、まさにそのとおり。

文章は写経のように書くのがいい

文章は写経のように書くのがいい

  • 作者:香山 リカ
  • 発売日: 2009/03/02
  • メディア: 単行本
 

完璧な文章を投稿して、アップロードしたら手直しはしないことも大切な価値観だと思いますが、ぼくはそれは「印刷物だった頃の常識の名残り」ではないか?と考えることがしばしばあります。

雑誌や書籍はもちろんパンフレットにしても、印刷された文字は訂正できないし、訂正するときに多大なコスト(費用)がかかります。誤字にはシールを貼ったり、正誤表を別途印刷して挟み込んだりしなければなりませんでした。最悪の場合には、すべてを回収して、刷り直す必要があります。

若かりし編集者時代に青ざめた失敗としては、雑誌に掲載された電話番号を間違えたことがありました。あれは心臓が止まるかと思った。

こともあろうに、自分の会社の電話番号で原稿を作ってしまったんです。校了(印刷前の最終チェック)時に空欄に気付いて、慌てて入れた赤字(修正)だった記憶があります。それ以降、必ず印刷入稿(印刷会社に最終原稿を渡すこと)の校了段階では、実際に電話をかけて、記載先に電話がつながるかどうか確認していました。

しかし、仕事ではなく印刷物でもない個人のブログはもっと自由でいいのでは?

インターネットのメリットは、情報を成長させることができる点にあるとも考えています。ぼくはmixiのサービスからSNSをスタートしましたが、当時のミクシィ「β(ベータ)」というバージョンがタイトルの横に付けられていました。というのは、完璧じゃない状態で公開して、ユーザーの意見を反映しながら拡充していくという開発思想があったからです。ミクシィに限らず、あらゆるサービスがそうでした。

真似しないほうがよいかもしれませんが、いまぼくが考えているブログ公開のルールを書いておきます。

まず8割ぐらいの完成度でとりあえず公開しちゃいます。もちろん校正はします。けれども趣味だからアバウトです。したがって誤字や脱字もあれば、勢いで書いてしまった変なノリもある。それもよしとする。

けれどもその後、数時間後もしくは数日後にエントリを見直して、修正するようにしています。一度公開したエントリは修正しちゃいけないって、誰も決めていないですよね。それならば、ぼくは修正してよいというルールにする、と。ツイッターの場合は、そもそも投稿を編集する機能がありません。したがって慎重になるし、誤字脱字は別のツイートをしたり、削除するようにしています。

したがって、ぼくのブログのエントリは、公開から数日後に訪問いただいた方がよいかもしれないですね。公開時から推敲と修正を繰り返して別モノになっている可能性があるので。

「鮮度」を優先するわけでもないので、過去の投稿に手をいれてブラッシュアップすることもあります。

このような考え方で書いたブログを「生成変化し成長するブログ、静的(スタティック)ではなく動的(ダイナミック)なエントリ」と名付けてみましょうか。

できあがった原稿をちまちま推敲している時間が待ちきれないだけなんですけど、人間そのものが生成変化し、変わらないものは何ひとつとしてない。書いた文章は次々と「過去の産物」になります。そのとき公開しなければ、気が変わってしまってボツになる可能性が高い。ぼくらの現実世界や人生において、不完全であることが完成形だと考えています。

常識と考えていることは、自分の思い込みにすぎないかもしれません。

「完璧に仕上げなければブログは公開してはいけない」という呪縛から自分を解放することで、肩からチカラが抜けて書き続けられる気がします。。

他人のことはともかく、自分自身が常識に囚われていることが多いので。あまり参考にならないかもしれません。

ぼくのブログ執筆の現場からは以上です。

*1:ツイッターが日本上陸した黎明期の頃に流行した言葉。広瀬香美さんが多用するなどして広まった。