Lifestyle Innovation | Soseki21

つぶやきのまとめ。とりとめのない思考を書き綴っています。

「自粛」とは何だったか、アフターコロナで大切なこと。

自粛する武士:Soseki21ブログ

日本では、おとといの月曜日にCOVID-19の緊急事態宣言が全国的に解除されました。安堵すると同時に、実は「ここからが耐えどころだ」と考えています。

というのは、これまでは緊張感を持って我慢していたのですが、ここでテンションが緩むことによって蓄積されたストレスが一気に押し寄せて、身体と精神ともにやられてしまう気がするからです。二次感染の恐れがあるかもしれませんが、感染しなくてもダメージが怖い。

個人的にCOVID-19の恐ろしさは、パンデミックの拡散力と感染後に急変する病状はもちろんのこと、感染していなくても社会の「空気」に蝕まれてしまうことではないか、と痛感しています。

アメリカでは、COVID-19によって自殺者が増加傾向になる恐れが伝えられています。一方、日本では4月の自殺者が前年比2割減だったことが報じられました。しかし、だからといって安心できません。

www.cnn.co.jp


「自殺リスク高まっている」前年比2割減でも・・・(20/05/13)

日本では自殺が減少傾向にあり、アメリカでは増加。

なぜこのように差が出たのかという理由は、ひとつに絞り込めないと思います。多数の原因が複雑に絡み合っているため、これが原因だと断定できない。

感染者数だけをみても、ニューヨーク市は19.9万人の感染者数、 16,410人の死亡者数があり、アメリカ全体はもちろん世界全体においても深刻な状況です(2020年5月27日現在。データはGoogleおよびWikipediaによる統計)。

深刻な状況下では絶望に負けてしまうこともあるでしょう。治安に対する不安、経済悪化と先行きのみえない雇用状況、さらにコミュニケーションを大切にするアメリカで友人や知人との断絶が長期化すれば、自ら命を絶つ選択を選ばざるを得なくなるのかもしれません。かなしいことではありますが。

しかし、ニューヨークに行ったことがない/いまその現場にいない自分には分からないし、日本人の自分には分かったようなことは言えない、と感じています。

分かるとすれば日本のことですね。

パンデミック当初は海外から危機感のなさを指摘された日本ですが、いまあらためて日本のコロナ対策が見直されているようです。

個人的な見解では、日本がパンデミックを抑え込むことができそうな理由には、3つの要因があると考えました。次の3つになります。

 

Factor-01

日本には、日本語という

独自のハイコンテクストな言語があった

ハイコンテクストとは、端的にいえば「以心伝心」。

日本語は、言葉にしない文脈つまり暗黙のコンテクストを共有する言語であると認識しています。今回のパンデミックにあたって、日本語のハイコンテクストな独自性が効果的に機能した印象を受けました。

ところで、日本語が独自だからといって、英語のThis is a Penの「ペンっ!」という発音と比較するのは短絡的です。英語には[p]のような発音があるから、飛沫によって英語圏でウィルスの拡散を招いたという実験を放送したバラエティ番組があったようです。トンデモ論だと感じました。なぜなら海外でもマスクしているわけだし。

[p]のような発音は、外来語とともに日本に輸入されて急速に広まったということを検索して知りました。しかしながら、いま日本では外来語もふつうに話します。だいたい「Pen」なんて日常的に使わない言葉です。ネタならおっけーですが、伝統のある大学の名誉教授がテレビのメディアで、苦笑せざるを得ない説を展開するのはいかがなものか。

世界中に拡散して、ネタに使われてしまいました。


This is a Pen. これはペンです。

発音はともかく、日本語のハイコンテクストな側面は、今回のパンデミックにあたって効果的に機能したという印象があります。

要するに、細かくルールを決めなくても「自粛」という言葉を流布させるだけで、みずから(自)が身を引き締めて(粛)他者を抑制し、社会全体を調和させたという実感です。日本人は多言語ではないことも有効だった気がしますが、「言霊」のような拘束力があったのではないか。

これは、政府のおかげでも行政のおかげでもありません。

個々の日本人による努力の賜物であり、そのような文化を育んできた「日本における歴史の恩恵」であります。ここは勘違いしちゃいけないところです。

とはいえ「こんなときでもオレはオレ流に生きる。こんなときだからこそ楽しむのが自分ルール」みたいに、自宅をキャバレー化して、権力者とお友達であることを勘違いしていた芸能人がいたことをNEWSで知りました。

他の先輩たちが必死で窓ガラスをきれいにしたり、自宅でダンスを教えたりしていることが無になるわけで、そんなことをすれば芸能界から追放されるのは当然です。今後のことは分からないし、ファンもいるだろうから擁護されるのでしょうが。

アメリカでは、自粛が解放されるやいなやビーチがびっちりと密な状態になってしまったようで、ある意味「自分さえよけりゃいいじゃん」という個人主義的発想は、アメリカナイズされた思考なのかもしれない。

したがって、アメリカだったら歓迎されたかもしれないですね。

 

Factor-02

日本では、パブリックにおいて

適切な「間合い」を取る習慣があった

アメリカのよいところは出会った誰にでも「はーっはっは」でハグして、背中ぽんぽんのようなコミュニケーションすることではないでしょうか。洋画などで観るとかっこいい。憧れのアメリカという感じがします。

しかし、日本ではそのような挨拶をしません。日本の挨拶は、微笑んでアタマを下げるだけ。その奥ゆかしさが日本人ならではの社会的習慣です。

アメリカはフレンドリーかもしれないが、日本で(特に異性に対して男性上司が)いきなりぎゅーしてぽんぽんすると、体育会系企業を除けばセクハラで訴えられる可能性があります。日本は繊細な社会です。繊細ゆえに窮屈なことが多いけれども、繊細さが今回のパンデミックでは功を奏したのではないか。

つまり、ソーシャルディスタンスなどと言わなくても適切な「間合い」を取ることが、日本における人間関係のデフォルト(標準仕様)であって、海外の視点からすれば「Why?(なんで?)」という珍しいものとして感じられる気がしました。日本人としては当たり前のことだけれど、グローバルな常識ではない。だから不思議がられる。

人間関係の間合いを取る究極の方法が「引きこもり」かもしれません。自粛の究極形態かもしれない。しかし、一方で気になるのは引きこもりという言葉の起源です。襖のような和紙で部屋を区切る文化があった日本において、引きこもりの歴史がどのように変遷してきたか?ということに興味があります。

 

 Factor-03

日本には、人間関係が苦手で

引きこもりがちな非社会的な国民性があった

引きこもりについて触れて想像を拡げたのですが、極論を言ってしまえば、歴史を遡れば日本は「鎖国という国家的な引きこもりを実施していた国家」ではなかろうか。日本は島国という地理的条件にあることも、攻めより守りに徹することを重視するようになった要因のひとつかもしれません。

いま引きこもりは個人の様式になっているけれど、日本という国家における最大の生き延びる戦略(戦略って言葉が嫌いなのだが)だったのでは。とかく問題視されがちな引きこもりだけれど、体力を温存することによって消耗を防ぐ「闘わない闘いかた」でもあります。

さらに、村八分という言葉があったように、どんなに都会になっても基本、日本は「村社会」ではないかと考えています。異質なものを疎外し、海外からの移民をできれば受け入れたくない姿勢がある。よって、コロナ感染者でさえ「平和と秩序を乱す存在」として排除するような傾向を感じました。

地域でコロナ感染者に対して「近づくな」とか、首都圏から帰省した妊婦を受け入れないような差別に結びついたことは、日本人として残念です。その同調圧力と空気を重んじる国民性がパンデミックを抑えたと考えてはいるのですが。

内側にはやさしく外側には厳しいことが、日本的な風土なのかもしれません。この場合、内側とは自粛を重んじて陰性である日本人であり、外側とは欧米のように状況を見極めずに楽観視する陽性の気質です。

あるいは閉ざされた村社会だからこそ、異質な誰かを生贄にする必要があった。それがもしかすると、いじめの本質なのかもしれません。だとすれば社会の構造上、いじめはなくならないですね。

日本人どうし、あるいは弱いものには誹謗中傷などを徹底的に行うけれど、権力的なもの、そして海外にはめっぽう弱いことも日本人のネガティブな気質だと感じています。自分を含めてなのだけれど。

 ■

緊急事態宣言の状況を振り返って、日本の文化と国民性が、パンデミック状況下の日本を救うことに有効であった、という所感を述べました。自慢できることじゃないかもしれないけれど、マイナス面がときにはプラスに働くよい例です。

「自粛」に耐える国民性があると同時に、村社会の同調圧力がぼくら日本人を苦しめてきたわけであって、自粛によって最大のストレスである人間関係に悩む必要もなくなったから自殺が減少した、とも考えられます。

政府や行政に要請されなくても、自粛していない人間を追い詰める自警団まで登場しましたが、そのような同調圧力=空気をつくり出す国民性によって、日本は救われたのかもしれません。

ところで、政府や行政の施策ではなく、国民性によってコロナを封じ込めたかのようにみえる日本ですが、アフターコロナの際に問題があるとすれば、日本人は喉元すぎれば暑さを忘れる、過ぎた途端に「水に流してしまう」結果オーライで万歳三唱の文化があるということではないだろうかと感じています。

さらに重要なことは、日本人は「変化」に弱くて脆いということです。

したがって、日本のアフターコロナで大切な行動指針は3つあると考えました。

 

Action agenda-01

パンデミックの対応を客観的に顧みて

今後に生かす

第一に、今回のパンデミックの対応がどのようであったか、客観的に顧みて今後に生かすことです。

日本人に多いのは「記録してなかった」はともかく「記録した文書がどっかいっちゃって分からん」「済んだことなので、もういいでしょう」「最善を尽くしたのだから、水に流しましょう」「みんな頑張ったし、責めないで」という忖度ではないかと思います。しかし忖度は、やさしさではない。忖度はぜんぜん、よくない。

政府や行政の対応が遅れたこと、二転三転してようやく最善策を実施できたことはぬるい。台湾を見習いなさいとはいいませんが(台湾はアジアの優等生すぎる)、日本の政府は危機感なさすぎ&リーダーシップ皆無。また緊急事態のどさくさに紛れて、へんな改正法案を突っ込むところも狡猾すぎる。やってはいけないことをやってしまった。

いまの政権はよく頑張ったと思います。だが、ここで潔く退陣していただきたい、というのが個人的な願いです。なぜならば、再びパンデミックがあったときに不安だから。このままの政権ではまずいから。

政府や行政を罵倒するのはよくないし、それだけでは何も解決にならないと考えます。しかし全面的に肯定すれば、今後同じ過ちを繰り返します。したがって、グローバルな視点から各国の対策を考慮した上で、日本の独自性も踏まえつつ、アジアの一国として日本の在り方を考える必要があります。

このとき、目を向けるべき世界は「欧米ではない」と考えています。

というのは、もはや明治維新の時代じゃない。欧米の水準は、日本が手の届かないような、はるか遠くまで行ってしまった。日本はアジアですらリーダーシップがとれない状況です。また、ある意味で欧米は真似をすべき教師ではないとも感じています。

今回のパンデミックでどうだったか冷静かつ客観的に反省するならば、日本のパンデミック対策は、お粗末だったのではないか

「じゃあ、お前がやれよ」という反論は無意味で、だからこそ選挙をして政治家を選んでいる。「失礼な、日本を侮辱するのか」と憤るかたもいらしゃるかもしれないが、日本が好きだからこそ、ダメな日本を直視しなければならない。

いま日本にいない海外在住者であれば無責任なことを言えるだろうけど、ぼくらは日本で生活している。そんなわけで誰もが当事者です。

当事者意識を持つならば、黙ってはいられないのではないだろうか。

 

Action agenda-02

これからが耐える正念場

変化に動じず、自律的な舵をとる

日本と政治の方向性について書きましたが、第二として組織や企業の在り方を考えます。 

日本が変化に弱い、脆いことについては既に言及しました。どこが弱いかといえば、人工知能などの先端テクノロジーマーケティングの動向にもいえることですが、いたずらに海外の動向ばかりに気をとられて、海外に踊らされたり煽られたり、翻弄されることです。

夏目漱石は、明治時代に海外の動向に翻弄される日本を『私の個人主義』で「天狗にさらわれた男」という比喩で批判しました。いまは明治時代から遠く離れた21世紀とはいえ、日本人は変わっていないと感じます。

私の個人主義

私の個人主義

 

いまマスメディアでは、イタリアが娯楽施設を再開した、アメリカのビーチが賑わっている、などと報道しています。それで、やばい、アフターコロナに向けて、日本も走り出せ!と焦る気持ちは分からないでもないのですが、隣の芝生は隣の芝生だろう、と。

イタリアはパンデミックの当初に大きなダメージを受けました。アメリカも現在、コロナ感染者数ではトップに君臨しています。

だからこそ早急に経済の立て直しを図らなければならないわけで、もちろん日本も同じなのですが、落ち着きましょう。思考停止して各国にならうことによって二次感染を招くシナリオだってなきにしもあらずなのだから。

パンデミック対策の後発国であることは、それぞれの国の対策で、よいところ、まずいところを学ぶことができるはず。子どもが親の背中をみて育つように。

日本のお家芸のひとつにカイゼンがあります。

東洋や西洋の文化や先端技術をいいとこどりしてスポンジのように吸収し、独自の文化に昇華させることがカイゼンの醍醐味です。このカイゼン魂を生かすべきじゃないか。後発だからダメだということはなく、後発だからこそできることがある。

国家ではなく企業や組織、個人でも同じです。後発だからこそ得られるチャンスがある。

 

Action agenda-03

「以前のように」してはいけない、

ムリに新しい生活様式にする必要もない

 「さあ、コロナが終わったから以前のように仕事しようか」

そんなことを上司が言い始めた職場があるようですが、何も分かっちゃいないなあ、と感じました。どうして以前のようにしたがるのだろう。そして、以前のような状態を持続可能な社会であると思っているのだろうか。

 自粛によって、変わったと感じたことはありませんでしたか?

ぼくにはあった。トウキョーが静かになったこと。鳥の声がよく聴こえるようになったこと。人間にとっても生活様式を見直す機会になったかもしれませんが、地球の環境破壊をストップさせ、自然を取り戻すためにも意義があったと思います。

鎌倉の海がきれいになったのは、自粛したせいかどうか分からないけれども、海もきれいになってほしい。そのために自粛の期間があったのであれば嬉しい。

www.yomiuri.co.jp

COVID-19がどうして生まれてきたのかわかりません。

しかし、どんな悪役だって生まれてきた理由がある。パンデミックによって人類を何十万人も殺戮した意味で、人類にとっては悪役かもしれないが、そういう人類だって自然破壊によって、どれだけの生物を殺めてきたのか。

個人的な経験ですが、ぼくはかつてうつ病で苦しんだことがあります。病気が寛解に向かうときに言われたことは「以前のような仕事はできないことを覚悟してください」ということでした。というのはとても簡単な理屈で「以前のように仕事に戻ったら、同じことを繰り返して発症してしまうから」。

実際に、同じことを繰り返して復職に失敗しました。というのは、以前のように頑張ろうとしたために、もとの状態に逆戻りしたからです。その苦い経験があるからこそ言えるのだけれど、コロナの状態も同じではないか、以前に戻ってはいけない、と。

そこで第三の行動指針ですが、おそらく在宅勤務を経験することによって、あるいは失業や倒産の危機に追い込まれた人間にとって、パンデミックという非日常的な時間を通過することで、自分の人生を考え直す契機になったひとが多いのではないでしょうか。

「通勤時間をじっと耐えることも仕事のうちだと思っていたが、通勤しなくても仕事できるじゃん」と目からウロコが落ちたひとがいるだろうし、逆に「いっつも一緒にいることは意外に苦痛。相方は外で働いてくれたほうがマシ。家庭でもソーシャルディスタンスは大事」と感じたひともいるでしょう。

経済は壊滅的に破綻、景気が著しく後退した世の中で「以前のように」を求めることは、お花畑的な理想論にすぎないと思う。むちゃだろう。また、コロナ渦を通じて価値観が大きく変化したひとが多いのではなかろうか。せっかく気付いたことを、もと通りの生活のなかで薄れさせてしまうのは惜しい。

さらにいえば、アフターコロナだからといって、まったく新しい生活様式にする必要はないし、何か新しいことが待っていると過剰な期待をしても、失望するだけのような気がします。

たとえば現在は21世紀ですが、20世紀の終わりと21世紀のはじまりで(つまり2000年12月31日から2001年1月1日にかけて)、どかーんと何か大きな変化があったでしょうか。なかったはず。

もっとスケールダウンすれば、誕生日を迎えたからといって、その日自体は何も変わらない。もちろん1年経過すれば変わっていることがあります。

あるいは今日と明日の境目は午前零時なのかもしれないけれど、午前零時になると魔法が解けるのはシンデレラだけで、ぼくらは今日と同じような明日に歩み始めるものです。とはいえ今日と同じ明日はないけど。

ぼくは「ぼくであること」、あなたは「あなたであること」を継続する、維持することが大切であって、変わる必要はないのではないか。でも、変わりたければ自主的に変わればいい。それだけのことだと考えます。

「いやーそんなこといったら成長できないだろ」というかもしれないけれど、成長って必要なものだろうか? むしろ、いまを丁寧に生きていれば必ず成長するもので、考えようによっては「成長も成功も結果でしかない」。その結果は、生きていれば必然的にもたらされると考えます。

だから焦る必要はないし、世界がどうであっても動揺しなくていいと思いますね。私見ですけれども。ついでにいえば、そんなに悟りきれない自分もいる。

最後に「もう以前のようにはできない」と「自分であり続けること」は矛盾していないか、と感じたので考えを述べます。

以前のようにできないのは「社会」であって、持続しなければならないのは「個人」です。言い換えれば、個人の尊厳を守るために社会は変貌しなければならない。個人に対して、以前のような状態を復帰させる負荷を与えるのは、無謀ではないか?と考えました。

したがって、個人の生活を持続するために個人が変わるのではなく、社会が変わることが必要である、ということが自論です。アフターコロナで脆い存在である人間ひとりひとりに負荷をかけたとしたら、壊れてしまうと思う。その存在を維持するためには、社会の変革が求められるであろう、と。

「どう社会を変えていくか?」ということは個人の課題であると考えます。

 ■

というわけで、8,000文字を超えてしまったのでそろそろ終わります。

どうしてこんな長文を書いたかといえば「アフターコロナ」というテーマで、原稿を書かなければならなかったからです。

仕事の原稿は「書きたいこと」ではなく、「求められていること」を書かなければなりません。ただ、その前に自分の考えを吐き出しておきたいと思ったので書きました。うまく書けなかったけれど、また書きます。