ぶっ倒れて鑑賞した映画/ドラマ/アニメから考察した。
ストレスからぶっ倒れて救急車に乗り、日々痛みの渦のなかにいたのですが落ち着いてきました。
パソコンの画面が網膜に焼き付いてしまうので、長時間パソコンに向かうことができず、仕事モードで頭を駆使するとずきずき頭痛がして、全身に針のようなちくちくした痛みが走る。ようやくいま体調を回復しつつあります。
視力に問題があった頃を除いて、身体が不調なときにはスマホで映画やドラマを観ていました。緊急事態宣言の前後、Amazonプライムの動画に救われた気がします。といっても途中でダウンして最後まで観ることができなかった作品や、冒頭だけ観て「つまらなそうだな、これは」と諦めたこともありました。たとえばドキュメンタリーや科学映画にも挑戦したのだけれど、これは断念。
ふだんはツイッターで映画の感想を「#eiga」というハッシュタグを付けてつぶやいて、あとから必要なときに検索して思い出しているのだけれど、そんな余裕もなかったのでつぶやきませんでした。
そこで緊急事態宣言が出された前後で、大人買いならぬ「大人鑑賞」した映画、ドラマ、アニメををまとめて考察します。なぜ大人鑑賞かといえば、シリーズで続けて観た作品が多かったからです。ドラマやアニメの場合は1シーズンをぶっ続けで観ました。ぶっ倒れた状態で。
ジャンルに分けて感想を書きます。
■洋画編
ワイルド・スピードシリーズ
通称「ワイスピ」だそうですが、ツイッターで教えていただいてハマりました。まだ全編コンプリートできていませんが、観た作品は以下6本になります。
1作目:ワイルド・スピード
2作目:ワイルド・スピードX2
4作目:ワイルド・スピードMAX
6作目:ワイルド・スピードEURO MISSION
7作目:ワイルド・スピードSKY MISSION
ワイスピはカーアクションの映画です。
キャラクター設定が泣かせることと、作品数が増えるほどにアクションが派手になって「え?これはあり得ん!」という演出になっているところが楽しめました。お約束というか、ストリートレースのシーンが挿入されて、きれいなおねえさんがくねくね踊る背景にYO!みたいなラップやラテン系の音楽が入ります。それも楽しい。
第1作目では、ストレートレースをやりながら犯罪に手を染めるドミニク・トレット(ヴィン・ディーゼル)と、おとり捜査をするブライアン・オコナー(ポール・ウォーカー)が、追いつ追われつのなかで接近していくところを起点とします。
ここで「追いつ追われつ」というのは捜査でもあり、そのまま改造車によるストリート・レースでもあるのですが。ブライアンはドミニクの妹に惚れていて、ドミニクを知るうちに彼を逃してしまう。第2作目からは彼自体も指名手配の追われる身になり、ドミニクを手伝っているうちに次第に仲間があつまって、巨大な事件の解決のために警察を手伝うようになる、というストーリーです。
ドミニクの主義は、仲間たちは「家族」だということ。
その家族には、アジア系のイケメンがいたり、ちょっとドジで陽気なやつとかハッカーがいたりします。この血のつながらない家族たちとともに、ルーク・ホブス(ドウェイン・ジョンソン)のようなムキムキの警察官とも敵対するのだけれど、ドミニクの主義に友情を育み、ふたりの間にも友情が芽生える。その後、事件の解決を依頼したりピンチを救ったりします。それにしても、ドミニクとホブスのふたりのシーンは、どんどん筋肉自慢みたいな光景になっていて逞しすぎる。
いちばん印象に残って好きだったのは、ブライアン・オコナーを演じるポール・ウォーカーの屈託のない笑顔でした。
写真はWikipediaから。
ところが、彼はワイルド・スピード7作目SKY MISSIONの途中で交通事故で亡くなってしまいます。レーシング・ドライバーの友人が運転する赤いポルシェカレラの助手席に乗り、160キロのスピードで街頭や街路樹に激突、爆発して炎上だったとのこと。
あれだけ映画で過酷なシーンを演じてきた彼だったのに、スクリーンの外でしかもクルマに乗っていて、あっけなく40歳の人生を閉じてしまった「銀幕の外側の物語」に泣けました。あの笑顔をもう見れないのかと思うと残念だった。彼の笑顔があったからこそ観続けてきたのに。
SKY MISSIONでは、彼の兄弟を代役に立ててCGで処理して完成させたようです。どのシーンが兄弟を起用したのか鑑賞したときには分かりませんでした。というより鑑賞した後に調べてポール・ウォーカーが亡くなったことを知り、ひたすらショックでした。
あなたは見分けがつくか!?CGで蘇ったポール・ウォーカー THE HOLLYWOOD MAGIC Fast Furious 7
シャーロック・ホームズシリーズ
テレビドラマの『SHERLOCK(シャーロック)』も好きで、シーズン1ならびに映画版を全部観ました。言わずとしれたコナン・ドイルの推理小説が原作ですが、原作のキャラクターをもとにかなりアレンジされています。
なんとロバート・ダウニー・Jrの演じるシャーロック・ホームズは、ストリート・ファイトのボクシングで闘う格闘家です。
おそらくガイ・リッチー監督自体が格闘家だからそういう設定になったのだと推測しますが、迫りくる敵の攻撃を何手も先まで読むスローかつ独白のシーンのあとで、そのとおりに相手をやっつけるシーンが展開される。敵を倒す以上に先を読んでいることがあって、なるほど、推理も格闘術のようなもんだな!と感じました。その意味で、ガイ・リッチー監督の個人的な趣味を映画作品に持ち込んだおかげで、斬新なホームズになっているのがいいと思います。
強いんだか弱いんだか分からず、女装したり奇妙な実験をする変人をロバート・ダウニー・Jrが演じていて、原作のシリアスなホームズっぽくない気がするけれど、こういうホームズもありかもしれん。しかし、最初は斬新すぎて、ついていけない違和感もありました。
ロバート・ダウニー・Jrは『アイアンマン』などの作品で観てお気に入りの俳優のひとりですが、この映画を観たときの第一印象は、目がでかいでした。一方、ジュード・ロウが演じるワトソンは紳士でかっこいい。かっこいいんだけど、ホームズのために大酒くらってぼろぼろになったりして、間抜けな面をみせているところが好印象です。
映像全体がモノクロというかノワールというか、沈んだトーンで展開されていることもよいと思いました。古きロンドンの退廃した雰囲気が感じられます。エンドロールで俳優さんのカットがペンによるスケッチのように変わる演出は秀逸です。1作目の最後でいいなあと思ったら、2作目の冒頭ではそのタッチで始まっていて、さすがシリーズの仕掛けをよく分かってらっしゃる、と納得。
マン・オブ・スティール
映画『マン・オブ・スティール』予告 J・ケント篇 2013年8月30日公開
この作品はシリーズではありませんが、ヒーローとしては時代を超えて愛されてきたスーパーマンの映画です。
DCコミックスが原作で、この映画ではスーパーマンになるまでの苦悩と闘いによって変わっていく姿が描かれています。DCコミックを実写化するクロスオーバー作品群の一作目だったようで、他には『ワンダーウーマン』などの作品を展開しているらしい。
丁寧につくられた映画だと感じました。スーパーマン役のヘンリー・カヴィルがとても誠実な雰囲気で好感。観ていませんが、彼は映画でシャーロック・ホームを演じているようです。ロイス・レイン役のエイミー・アダムスも美しい。そして何よりもスーパーマンの父親役として、クリプトン人の実父はラッセル・クロウ、育ての父にはケビン・コスナーというキャスティングが渋い。
世界的かつ歴史に残るヒーローを映画化するにはプレッシャーも大きいと思います。しかし、エンターテイメントの部分では速いテンポで壮大なSFXのシーンを展開するとともに、鑑賞後にこころあたたまる印象を残している点で、成功した映画ではないかなと感じました。タイトルが「スーパーマン」だったらがっかりですが、そうではない。それが作品としての深みを与えているのでは。
■日本のテレビドラマ編
空飛ぶ広報室シリーズ(全11話)
何を隠そう(隠してないけど)ぼくは新垣結衣さんのファンです。といっても、ファンであるがゆえにドラマを観ていません。逃げ恥も1話しか観ていない。ファンであれば、胸を張って言えることではないのですが(苦笑)なぜファンなのにドラマを観ていないかといえば、照れくさいからです。何だその理由は。
どうしてファンになったかというと、新垣結衣さんの1枚めのCDがTSUTAYAで「隠れた名アルバム」として紹介されていたのですが、気まぐれにそのアルバムを借りて聴いてやられました。つまりシンガーとしての新垣結衣さんのファンだったわけです。
彼女の歌はうまいというわけではなくて、むしろファーストでは声が出ていない印象です。しかし、か細い声にも関わらず真摯に歌い上げていてこころを打たれました。セカンドアルバムを聴いたところ、めざましい成長を遂げていて「素直な人なんだなあ」と感じています。あまり飾らないところがいい。
『空飛ぶ広報室』は人気小説家の有川浩さん原作で、航空自衛隊の広報部を舞台に、さまざまな人間模様が展開されます。
中心となるのはブルーインパルスのパイロットを夢見ながら交通事故で資格を剥奪されてしまって、自衛隊の広報室勤務となった空井大祐(綾野剛さん)と、テレビ局の報道局でばりばり頑張っていながらトラブルを起こして情報局のディレクターに異動させられた稲葉リカ(新垣結衣さん)の物語です。震災のシーンには考えさせるところが多々ありました。このCOVID-19も、いつか振り返って考える日が来るのだろうか。
広報という仕事に関して思うところもたくさんありました。あるいは取材面では、ナポリタンのお店を取材するシーン。稲葉リカはフォークで麺をリフティングして撮影しておきながら、食べずに帰って動画を編集します。そして、懐かしい味などというありきたりのテロップを付けて番組をつくります。しかし、その後でお店で食べた空井から話をきいて、慌てて店に戻って食べ直すと、まったく自分の考えていた味ではなかった。そこで自分のバカさ加減を反省して涙を流す。
体験しないでステレオタイプなことを書いたとしてもニセモノかもしれないし、そんな仕事は「甘い」ものでしょう。実体験に根ざさなければ、どんなに分かったようなことを書いても傍観者でしかない。借りものの仕事をしていても、当事者にはなれません。あるいは、よく知らないにも関わらず、他人を分かったつもりになるのはとんでもない傲慢ではないか、と思います。
COVID-19の緊急事態宣言が解除されて、先日、東京の空をブルーインパルスが飛びました。このことについて「税金の無駄遣い」「意味が分からない」という発言をツイッターで散見しました。しかし、ぼくは肯定的にとらえています。少なくとも、ブルーインパルスが描いた飛行機雲の写真や動画を掲載して、感謝を伝えた人間のほうを支持する。
個人的には、自衛隊の存在に疑問を感じています。ただ「自衛隊は戦争のために準備された人殺しの軍隊ではない」という認識は持っていたいと考えました。そして、自衛隊が自衛以外の目的で出動しない社会をつくっていくことこそが、その存在意義である、と。
■日本のアニメ編
鬼滅の刃・シーズン1(全11話)
エロマンガ先生 シーズン1(全12話)
荒ぶる季節の乙女どもよ。シーズン1(全12話)
アニメをまったく観ない人間です。したがってファンのみなさんからみると、薄っぺらなことを書くと思います。頑なに観なかったけれど、だからこそ食わず嫌いをやめて観てみようと思ったわけですが、びっくりしました。こんなにすごいことになっていたのか、と。
上記の3つの作品をシリーズで観て並べたところ、出版社がまちまちであることに気づきました。以下になります。
『鬼滅の刃』
原作はマンガ、展開としてアニメ、ノベライズ、グッズ、CDなど。
作者:吾峠呼世晴
雑誌:少年ジャンプ
出版社:集英社
アニメ制作会社:ufotable
『エロマンガ先生』
原作はライトノベル、展開としてマンガ、アニメ、CDなど。
作者:伏見つかさ
作画:rin
雑誌:月刊コミック電撃大王
出版社:KADOKAWA(アスキーメディアワークス)
アニメ制作会社:A-1 Pictures
製作:EMP
『荒ぶる季節の乙女どもよ。』
原作はマンガ、展開としてアニメ、CDなど。
原作・原案:岡田麿里
作画:絵本奈央里
雑誌:別冊少年マガジン
出版社:講談社
アニメ制作会社:Lay-duce
製作:荒乙製作委員会
作品も面白かったけれど、それぞれ出版社が違うところが面白い。
説明する必要もありませんが『鬼滅の刃』は集英社の少年ジャンプ掲載のマンガです。舞台は大正時代。少年ジャンプからアニメ化された作品では、ジャンルはぜんぜん違うとはいえ、めちゃくちゃな歴史設定のコメディ『銀魂』も人気がありました。マンガ雑誌として生粋のエンターテイメントを提供してきた集英社という出版社の由緒ある系統に属していると感じています。といっても集英社は『進撃の巨人』のヒットを見抜けなかった点で、無能よばわりされたことがありましたが。
それにしても禰豆子はどこがよいかといえば、脚が色っぽい。おそらくキャラクターデザインの勝利ではなかろうか。なかなかこういう脚は描けない気がしました。和風の着物だからかもしれません。あえてアニメで黒を基調としたようですが、その中で白さが余計に目立つのでしょうか。あるいは自分が脚フェチなだけだったりして。
シーズン1の12話を観終わっていちばん気に入ったストーリーは、山奥でクモの鬼たちの家族が出てくる話でした。ニセモノの家族をつくろうとする鬼の話。個人的には苦手なんですけれども、クモ。
血のつながらない「家族(ファミリー)」の物語を展開するワイスピと重ねて、たとえキレてしまうクモの糸のようなニセモノだったとしても、「つながり」をつくって家族を希求したかなしい存在に打たれました。
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『エロマンガ先生』の主役は、高校生のライトノベル作家、ペンタブでエロいイラストを描いている引きこもりでイラストレーターの中学生の妹です。
この設定だけで一定のニーズをがっちり掴むだろうと感じましたが、さらにライバル作家たちとともに、メディアワークスのロゴそのまんまの出版社の担当の編集者が登場します。なんと書店で働く同級生の女の子までいる。
このあたりが新しい出版社であり、ライトノベル、アニメ、キャラクタービジネスを複合展開しているKADOKAWA(アスキーメディアワークス)っぽい。
オタクの文化を基盤として、ネットのコラボの在り方とか、出版企画書はどう書くかとか、作家と読者はどういう関係にあってプロットはどう組み立てるかとか、ビジネスノウハウがぎっしり詰まった作品だと感じました。といってもドタバタのコントとして観ることができるし、ほろりと涙するような部分もある。多様なフックが用意されている。
さらにいえば、書店で「平積みにする」「コーナーを作る」ことはどういうことか?という流通の知識までさりげなく作品に織り込んでいるわけです。いまや絶滅の危機に瀕してる書店ですが、学生時代にはちいさな書店で週に6日働いていた自分としては、書店員という脇役の設定に、とても親近感がありました。
この作品は、エンターテイメントでありながらアニメの形態をした「クリエイター育成の動画マニュアル」という点で面白かった。ライトノベル作家やイラストレーターを志望する若い世代を応援する作品として位置づけることができるのではないか。作家、イラストレーター、編集者、流通に携わる書店員の仕事が分かり、ライトノベルやマンガからアニメのような映像作品まで、複合メディアのビジネスモデルを俯瞰できる。
いや、ほんとすごくよくできていると思います。
出版企画書が出てくるアニメなんて観たことがなかったし、さらにライトノベル作家の仕事の大変さ(発行部数で格がつくこと、最終日には缶詰めになる孤独な作業があること、書き続けることの苦しさ)について教えてくれる。さりげなく内輪ウケの話を挿入しているのですが「小説もしくはイラストのような創作を続けるためには何が必要か?」というヒントもありました。
創作に必要な動機とはなんだろう?と疑問に思ったかたは、ぜひ『エロマンガ先生』を観ることをおすすめします。「観てもいいんだがタイトルは引く」というひとが多いと思いますが(困惑)
オープニング曲の「ヒトリゴト」という曲は、スカのリズムとかホーンセクションのアレンジが気に入りました。ClariSというユニットは有名らしい。まったくアニメを観ない人間なので知らなかった。
ClariS 『ヒトリゴト』Music Video(Short Ver.)
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最後の『荒ぶる季節の乙女どもよ。』略して「荒乙」は、共学の高等学校の文芸部の女子たちが主役なのだけれど、コメディのような軽快な雰囲気で最後まで続くのかと思ったら、後半で「うっわー、こうきちゃったか(苦笑)」と思わずどよーんとするような文学的なドロドロ感があって衝撃を受けました。しかしそれがあるからこそ、最後に突き抜けるわけで。
あらためて考えたのは、村上春樹さんの100パーセントの恋愛小説である『ノルウェイの森』を発行した講談社らしいな、ということです。
純文学の文芸誌としては伝統のある『群像』、そして純文学の作家の登竜門である群像新人文学賞がある講談社だからこそできるアニメだと感じました。群像新人文学賞は、村上龍や村上春樹など時代を牽引する新鋭のほか、中沢けいのような女流作家を生み出しました。したがって、講談社の品格を感じました。いや、原作が講談社だからこそ、この作品には意義があるのではなかろうか。
ちなみに「群像」はうちの父が購読していた文芸誌です。群像からデビューした作品を箱入りにした全集が実家の本棚に並んでいます。
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制作にあたっては「◯◯製作委員会」として、さまざまな人間が関わるアニメ作品だとしても、それぞれの出版社の特性に基づいた内容になっていたことが興味深かった。
けれども、ひょっとすると、そんなところに面白さを感じるのは、紙の文芸誌や本の時代を知っている昭和に生きていたおっさんだけかもしれない。
アニメやゲームがネイティブな若い世代には集英社や講談社という出版社の価値はあまりなくて、むしろアニメであればANIPLEXが製作したことが重要なのかもしれません。というのは、Amazonのプライムで『鬼滅の刃』はANIPLEX作品というカテゴリーに含まれていたので。
それにしてもアニメを観るだけではなく、出版と映像を含むビジネスモデルを比較することが楽しいと感じました。
原作がマンガでも小説でも構わないと思います。あるいはアニメや映画を小説化することもあり得る。スティーブン・キングは少年時代に、映画のノベライズをして学校で売りさばいてお金を稼ぎ、センセイに呼び出しをくらったとのこと。『書くことについて』という本で、そんな思い出話を紹介しています。
ひとつの作品が変奏されて、ゲームのようなインタラクティブ(双方向的)なビジネスもあるだろうし、原作の物語による時間軸を分解したキャラクタービジネス、音楽ビジネス、二次創作のコミュニティにおける波及効果、ノベライズ、音声だけのラジオドラマのような展開があるでしょう。
つまり、物語あるいはキャラクターが魅力的で、そこに世界観があれば、作者の手を離れて勝手に拡がっていく。
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その後、最近観たアニメには、『グレイプニル』があります。
落ちていたコインを拾って、特殊な自動販売機に入れると男が出てくる、という不条理なシーンから始まります。その男から勧められたドリンクを飲むと化け物に変わってしまう。しかし、主人公の少年が変化する化け物は、イヌの着ぐるみです。そりゃ苦悩するよね、と思いました。透明人間に変身すればひゃっほーかもしれないが、着ぐるみって何。
着ぐるみに変身してしまう設定自体が奇抜でしたが、さらにその着ぐるみにすっぽんぽんの女の子が入って着ぐるみを操って敵と闘うわけです。なんだそれは?!
「女の子に入れる」のではなく「女の子を入れる」わけで、着ぐるみのなかは、ぬめぬめしていてエロい。エヴァンゲリオンあたりのコンテクストにつながるのかもしれません。回を重ねて観ていくうちに唸ってしまったのは、主人公のこころに空いた「空白」=着ぐるみの内側に女の子を迎え入れることで、外側の少年と内側の少女のこころは通い合い、まったく別のチカラを生み出すという物語内のシステムの巧妙な設定でした。
つまり少年の着ぐるみは子宮的機能の象徴であり、やたらと戦闘的な女の子は女性でありながら男性的で、着ぐるみで相手を倒すことに対して良心の呵責に悩む少年は逆に女性的です。着ぐるみという装置を借りながら、そこに性を反転させた構図があり、ふたつの性が融合することでまったく異質なものを生み出す。『荒ぶる季節の乙女どもよ。』の表現を借りるならば、その合体シーンは「えすいばつ」なわけです。
『マン・オブ・スティール』でスーパーマンに変身する主人公のクラーク・ケントも苦悩していたので、異質なものに変身することは苦悩をともなうものかもしれません。
ひとりで苦悩したクラーク・ケントに希望をあたえたのは、新聞社に勤める記者のロイス・レインでした。という関わりは、強引ですがブルーインパルスに乗れなくなった広井を支える稲葉という『空飛ぶ広報室』にも重なります。
しかし『グレイプニル』では他者との関わりによって変わるのではなく、他者そのものを着ぐるみである主人公の内部に取り込んでしまう。内在するチカラとして他者を取り込む発想は日本的であり、現存するヒーローの概念をはるかに超越している気がしました。
できれば『グレイプニル』は、ハリウッドで映画化してほしいなあと思います。
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いま、ほんとうに面白いことになっているのは、アニメかもしれません。
しかしアニメを含めて、原作をどこまでも変奏していく点において映像の世界は興味深いと感じています。出版社は、映像や複合的なビジネスモデルを含めてパブリッシャーの意義があるのでしょう。たとえばビジネス書であったとしても、物語化して映像作品やオンラインセミナーに展開できるし、オーディオブックやポッドキャストにもできる。
このような変奏の可能性は創作やビジネスの世界だけでなく、個人の人生にも当てはまると考えています。
セルフブランディングという使い古された言葉を使いたくないのですが、自己のキャラクター設定ができればおのずと物語が紡ぎ出されるわけで、借り物ではない自分だけの物語を生きること、その物語を変奏させていくことに意義があるのではないか、と。