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つぶやきのまとめ。とりとめのない思考を書き綴っています。

なぜ、SNSで「嫌なこと」が起こるのか。

女性と風景:Soseki21ブログ

初めてインターネット上に何かを書き残した日を覚えていますか。

ぼくは覚えています。2006年でした。数行の投稿にも関わらず膨大な時間をかけて書いて、おそるおそる公開のボタンを押しました。

そのとき「扉(というか、マウスのボタンなのだが)を押したら陽光にあふれる世界が拡がった」みたいな充実とともに、得体のしれない不安と後悔が襲ってきました。投稿にコメントがついたときは嬉しかった。SNSに誘ってくれた友人、つまり身内のコメントでしたが。

最近、SNS界隈が暗く澱んでいる気がします。

もしかすると自分のこころが暗く澱んでいるだけかもしれません。いちばん暗く感じたのは、アメリカで起きた警察の差別問題でした。ツイッターに流れた海外の映像によって、日本の報道よりも早く知りました。酷いことが起きたなと思っているうちに、すさまじい暴動に発展して驚きました。

COVID-19が医療崩壊や治安の乱れを引き起こし、市民はもちろん警察もストレスが溜まって「鬱憤ハラス(晴らす)メント」が爆発したのかもしれません。しかしCOVID-19も、ミネアポリス市の事件も、きっかけにすぎなかったのではないでしょうか。ある現象が他の現象を巻き込みながら、暗い渦が拡がっていった印象があります。

ぼくがSNSで日記を始めた2006年には、単純に書くことを楽しんだり、自分の考えを共有したり、現在とは少しだけ違った状況にあった気がします。

「いやーそんな牧歌的な世界はなかった」とおっしゃる人がいるかもしれません。しかし、ぼくはSNSから発展的にブログを書くようになり、やがて音楽や映像などのマルチメディアによる情報発信という道のりを歩んだのですが、SNSの原動力は決してネガティブなものではなかった。「時代が違う」といってしまえば、それまでのような気がします。確かにバブルに浮かれていたのだから。

SNSの進化にしたがって、ぼくは書くスタイルを変えてきましたが、アルファブロガー(ブログ黎明期にアクセスの多いブロガーをそう呼んだことがありました)にはなれなかったし、YouTuberにもなれませんでした。それでも楽しかった。だから続いています。ところがいまでは時折、楽しくないことがある。なぜ楽しくないのだろう?

ひとつの要因として、インターネットにおける個人競争の側面が濃厚になったからではないかと考えているのですが、あまりにも短絡的かつ定型的な考察かもしれません。もう少し細かく分析する必要がありそうです。

先日、ブログにいただいたコメントで気になったことは、ブログで「嫌なこと」があったという内容でした。嫌なことを契機として、書きたいことを書けなくなってしまった、と。

具体的に何が嫌だったのか詳しく伺っていません。嫌なことを詮索するのもいかがなものか?と考えました。またブログ界隈で起こったことであれば、あまり具体的にするのもよろしくないと判断しました。

けれども、仮に「書きたいことが書けないもどかしさ=嫌なこと」と想定して、なぜ書きたいことを自由に書けなくなってしまうのか考えてみました。

真面目に書こうとすると重くなる話題かつ長文なので「せっかくの快晴の日に暗いテーマを読むのは、ちょっとなあ」と感じたひとはスルーしてください。

結論から言ってしまえば、SNSやブログを継続していくうちに嫌なことが起こるのは「読者(フォロワー)が増えたから」ではないかと考えました。「なんだそんなこと?」と拍子抜けするかもしれませんが。

そもそもブログを書きはじめた頃には、自分の投稿を読んでくれる読者の存在を強く意識しないものではないでしょうか。読者を意識しなければ、自分の書きたいように書けます。しかしながら読者の存在を意識しすぎると、動きが取れなくなる。

SNS:Soseki21ブログ

ブログを続けていると、いろんなひとが集まります

自分のブログのファンを増やすためには、読者を意識して書くことは重要です。読者のために書くことはもちろん、読んでくれるひとのブログを訪問して、評価することも読者を増やすための重要な布教活動のひとつです。

というのは「返報性の原理(好意の返報性)」という心理的側面があり、人間は自分に好感を受けた他者に「お返しをしなくては申し訳ない」という気持ちになるからです。

この返報性の原理自体が自他ともに「書き続ける力を失速させるリスク」を孕んでいて、いいね!をもらったから返さなきゃ、コメントしていただいたからコメントしなきゃと負荷をあげていきます。その結果、真面目な人間ほど「SNS疲れ」の状態になります。

特に気配りの利く女性であれば、こんな風に考えるのではないでしょうか。

「このテーマは、あのひとを傷つけるだろうな。書かないでおこう」

「こんなことを大勢の人に読まれるのは恥ずかしい。下書きでやめよう」

返報性の原理に加えて、妄想化した読者とのシャドーボクシングによって、闘う前に負けてしまうことが、書きたいことを書けなくなってしまう「内部要因」であると考えます。

ぼくにもそんな時期がありました。誰もそんなことは言っていないのに「これを書いたら、あの人に嫌われる」「あの人に気に入ってもらうためには、このテーマで書かなきゃいけない」という読者の声が勝手に脳内に聞こえてくる。

つまり読者が増えて読者のブログを読めば読むだけ妄想の負荷は高まるわけで、あらゆるひとの幸福を考えて書こうとすれば、無味乾燥になるのは当然です。八方美人であるがゆえに誰も愛していないような。

興味深いことに、校閲を徹底する企業の広報室は、そうやってオウンドメディアの記事の面白さを潰してしまうケースがあると感じています。むしろ、多方面に配慮しつつ炎上覚悟で独自性を打ち出した広報のほうが、いきいきとした情報を発信している。

「愛することは選択すること」だとぼくは考えます。

選択することは選択しなかったものを排除することであり、だから愛には残酷な側面がある。また、多くのひとは「読者を考えて書きなさい」「他人を思いやりなさい」という常識にとらわれがちで、その結果として自分を殺してしまう。

自分を大切にしない人間は被害者妄想が生まれるので「あの人に尽くしたのに」とか「私がこれだけやってあげているのに」などの思考に陥ります。実はそのような人間は、偽善的なやさしさを演じているだけで究極のエゴイストではないか、と。

まず自分を生かすこと、自分を生かすことによって読者や他者を生かすことという、自分ギブ&他者ギブの姿勢が大切ではないでしょうか。なぜならギブ&ギブ&ギブで与えてばかりだと自分が枯れてしまうので。あるいは「そんなに素敵な自分になってどうするんだ?」とも思います。ぼくはムリですね。疲れてしまう。

一方「外部要因」としては、ブログやSNSを続けた結果、長く交流するひとが出てくると、かつては沈黙していた仲良しさんが嫌なことを言う場合があります。それはなぜか?

ここで確率の問題ですが、たとえば10%の訪問者が嫌なことを言う傾向があるとすれば、1日に5人しか訪問者がいなかった場合は1人未満です。ところが1日に100人訪問者がいたとしたら10人は嫌なことを書くかもしれない可能性が考えられるので、嫌なコメントの発生率が高くなります。

ひとりの読者の内面における感情の比率に置き換えると、最初は1%ぐらいの「こんなこと書いちゃって。でもまあいいか」であったとしても、しばらく読者をやっているうちに「まあいっかと思っていたけれど、これは鼻持ちならない。我慢できなくなってきたぞ。言ってやるか」のように、批判的成分が20%ぐらいに上昇する場合があります。親しくなると人間的距離も縮まるので、感情の批判的成分が閾値を超えてしまうと言葉化して溢れ出します。

つまり、訪問者が増える/何度も購読するほど、嫌なことをコメントする確率が高まる傾向に転じると考えられます。もちろんブログの執筆内容や読者との相関関係があって、何を投稿するか、どれだけ親密な関係になったかにもよります。

他者は多様な考え方を持っています。

その多様な他者どうしが、趣味や共感によって一定の仲間ができたり、思想や主義によって連帯感が生まれたり「つながり」を生成するのがネットワークとしてのSNSの面白さです。けれども共感や賛同があっても同じ人間はひとりもいません。そして連帯ができるからこそ対立が生まれ、方向性は同じであっても反発しあうことがあります。

ツイッターのようなSNSで、数万人のフォロワーがいる有名人には少なからずアンチがいるものです。また、数万回の再生されたYouTuberの動画であっても、数千個の「いいね!」に対して数百の「よくないね!」が押されているのが一般的です。ぼくはベーシストが演奏したYouTubeが好きでよく聴くのですが「この神演奏になぜダメ出しするかな?!」という低評価が付いていることがよくあります。

低評価を下す人間の本質的感情は「ひがみ」でしょう。

匿名だから低評価を下せることもあります。匿名だからこそ自分を棚に挙げて上から目線の批評を下すわけです。これが実名であれば、現実的な存在を脅かすブーメランになりかねないので慎重になります。

と、だらだら書き連ねましたが実用性に欠けるので、ここからは「嫌なことを言う訪問者(読者)」に絞り込んで「どのような場合に嫌なことを言われやすいか。なぜ嫌なことを言う人間を集めてしまうのか?」を3つの視点から考察します。

 

1)批判的投稿は魑魅魍魎を集めやすい

訪問者が悪いのでなく、ブログを書いているひとのテーマの選定にもよると考えます。

ぼくもそうなのですが、最初は当たり障りのない日常を書いていても、そのうちネタがなくなったり、あるいは「もっといろんなことを書いてみたい!」という向上心がむくむく湧き上がってくるものです。

このとき政治的な批判、芸能人やセンシティブなネタを取り上げると危険です。アクセスを増やすことができますが、諸刃の刃で批判的なコメントも集めます。

というのは「どっかにネタになるやつは居ねがー」とネタを探してインターネッツをうろつきまわっている揚げ足取りや炎上マニアの魑魅魍魎がいて、そんな人間のかっこうの餌食になるからです。

そういう人間は文章力はもちろん読解力がないので、言葉尻に脊髄反射して飛びついてきます。このとき「せっかく訪問していただいたのだから/コメントいただいたのだから/ブックマークいただいたのだから」などと真面目に応答したり「ネガティブな反応も自分を成長するための大切な試練だ」と考えることは不毛です。いやーもうちょっと建設的なことで成長しましょう。成長したいのであれば。

他人をネタにして自分の満たされない自尊心を満たすようなハイエナは、基本的に議論の仕方が分かっていません。他人のブログやSNSの投稿を借りて自分のことをいいたいだけです。

批判的な人間の多くは、自分のブログを更新しません。自分のブログでは批判した投稿のようなテーマを書けないし、書いたら批判されるからです。なので、関われば関わるほど泥沼にはまる。毎回覗きにきて何か批判するようになる。

いま、オンラインもオフラインでも詐欺やストーカーのような悪質な行為をする人間がいますが、悪意への最良の対策は「相手にしないこと」です。

相手にすると弱みを掴んで接近してきます。したがって、どんなに煽られても相手にしない。といいつつ、ぼくは煽りに弱いので、かっと熱くなって相手にしちゃいます。それで何度も炎上しました。反省(苦笑)。

そもそもぼくは一般的にSNS上で議論はできないと考えています。

SNSで議論ができるのは高度なコミュニケーション能力の持ち主だけで、そういう優れたひとたちはSNSでは決して議論をしません。優秀なひとたちはSNS以外の場所で議論を展開する。

あるいは、議論する時間があれば、その時間に創造的な活動をしたほうが時間がムダにならないと考えるのが優秀なひとたちの思考です。もしインターネッツで創造的な対話をするならば相手を選ぶべきで、相手を間違えると対話は噛み合わないばかりか、双方の不愉快を拡大させることになります。

スマホを見る男性:Soseki21ブログ

 

2)相手の居場所に土足で入り込む人間の劣等感

そもそもブログやSNSの投稿って何でしょう。

ブログやSNSはメールじゃないですよね。メールは1対1による双方向のコミュニケーションですが、ブログやSNSは1対多のコミュニケーションであって、必ずしも双方向ではない。双方向にみえるのは、1方向×2だからです。

空中リプライ(誰かへの返信をきちんとした相手に投げかけないで、ひとりごとのようにつぶやくこと)はともかく、特定の誰かに向けて発信しているようで、実は別の誰かの話をしていることも多いのでは。「自分のことを言われている」ようなエントリであったとしても、あなたのことを言っているんじゃないことが多い。

ブログやSNSを双方向のコミュニケーションだと考えてしまう人間が少なからずいるようです。既に述べた「議論」と重なりますが、あなたに向けて発言したわけじゃないし、議論するつもりはないにもかかわらず、勝手にエゴサーチやら検索で発言を拾って意見をふっかける自己中心的な人がいます。驚くべきことに、有名出版社から本を出しているような人間がそんな幼稚なことをやっていることがある。

ちょっと別の話をはさみます。

かつてまだツイッターが英語版しかなかった頃、ぼくの知人がツイッターのやりとりをみて「おまえのメールが流出しているぞ!」と勘違いしてアドバイスをくれたことがありました。いや、それメールじゃないんですけど、と苦笑しましたが。

当時はプライベートを全世界に公開してお互いにやりとりするツールというものがなかったので、勘違いしても仕方ありません。しかし、いまではSNSでプライベートをオープンにすることも一般化しました。

勘違いしてもよいこと、仕方がないことがある一方で、勘違いしてはいけないことは、相手がブログやSNSに書いた記事はかけがえのない「相手の居場所」であり、いかなる他者であっても、そこに土足では踏み込んではいけないという認識ではないでしょうか。プライベートを語れば語るほど他者との距離は近くなるものであり、コメントでやさしい言葉を返してくれたら、ひゃっほーいなわけです。ただ、そんなお気に入りのブロガーさんが他の誰かにもやさしい言葉を返したりしていたら「きいいいー私だけにそうゆうことは言ってほしいのに!」ときりきりハンカチを噛んでしまう。なまじっか全世界に公開されているがゆえに、自分だけに向けたはずの愛情が他人にも向けられていることがガラス張り状態にある。

それはともかく、ぼくは原則として他人の主義主張はコントロールできないものであると考えています。コントロールできるのは自分の思考だけです。

たまに問題発言をみつけて「不快になりました。削除してください」というひとがいます。ぼくも言われました。しかし、あなたが不快になるのは自由だが、他人の発言に削除要求するあなたはいったい何様なのかな。傲慢ではないのか?と、ぼくは考えます。

もちろんトランプ大統領ツイッターのように暴力を助成するような発言はイエローカードや警告をすることは大切です。しかし、サービスの運営側がやることであって、一個人が一個人に対して制裁を加えることはできないのではないか。運営側に関しても言論統制につながる可能性があるので、慎重に行うべきだと考えます。

稚拙であっても偏見に満ちた見解であっても、それが個人の発言や思考である以上尊重したい。そうではないと、せっかく新鮮な考え方があっても「空気」が貴重な意見を潰してしまう。批判的な思考や現在に対する疑問も、新鮮な風穴をあける可能性がある。

焦点がゆるくなったのでまとめると、アカウントを設定したブログやSNS管理者や発言者の居場所であるがゆえに、ブックマークでコメントすることもコメント欄に書き込むことも「他人の場所に踏み込んでいることを意識することが大切」であると考えています。それがインターネットのマナーでありリテラシーではなかろうか。

したがってどうしても言いたいことがあるのなら、ひとの居場所をわざわざ汚すのではなく、自分の居場所(=ブログやSNS)で自分の意見を書けばいい。わざわざ他人の居場所にマーキングして回るのは飼い主がルーズなイッヌみたいなもので、排泄してスッキリしたいなら公共の場ではなくトイレで用をたすのがマナーだと思います。

ブロガーも同様です。「カモン!炎上上等。かかってきなさい」みたいな子どもじみたことを言うのは、慎んだほうがいい気がしますね。

 

3)親しき仲だからこそ礼儀がなくなる

 「親しきなかにも礼儀あり」ということわざがありますが、なぜそんなことわざができたかといえば、親しい仲だから甘えて無礼になるのが現実だからでしょう。

先日ぼくはフェイスブックを退会しました。大きな理由はフェイスブックを率いるザッカーバーグの発言および企業姿勢に疑問を感じたからです。しかし、ほかにも理由がありました。ずけずけと物を言う中途半端な知人の存在が以前から嫌だったからです。

ぜんぜん知らないひとから絡まれても「は?あなたはどちらさんですか?」で終わります。あ、そう、じゃあブロックで、さよならーということもできる。また最も親しい信頼できる知人であれば、メッセージや電話で連絡してくれます。

いちばん困るのは中途半端に親しい匿名の知人の発言です。ゆるいつながりの隣人こそ対処が難しい存在かもしれません。

街の俯瞰:Soseki21ブログ

ブログを長く続けると読者どうしの交流が増えます。それは楽しいことでもあるのですが、長く続いた匿名の人間が実は面倒くさいことになることがあります。

同時期にブログのデビューをした知人だけが急に人気が出たとすれば「いっしょにやってきたのに面白くない」。そこで出る杭を打とうとする。妬みから「この記事は面白くない」「あなたらしくない」と書き込むようになります。ほんとうに面白くないのであれば読まなきゃいいのに「あなたのことを思って」などと意見する。

頼んだわけでもないのに「あなたのことを思って」という人間ほど、うざったいものはないでしょう。ぼくもたまにそんな配慮のないコメントをしがちです。あるいは子どもたちに対してそう告げることがあり、反省しています。自戒を込めて。

最後にここまでの自論を整理しながら、「じゃあどうすれば?」という対処法について考えてみました。

といっても、個人的な経験に基づいた行動指針でしかなく、普遍的ではないかもしれません。参考にならない、というより、あまり参考にしてほしくないかも、と考えています。箇条書きにしてみます。

  • 思ったことを正直に書くことが必ずしもよいとはいえない。何を書くか?よりも、何を書かないか?のほうが実は大切。
  • SNSやブログは自分の居場所なので、そこに書き込まれた不快なコメントは削除して構わない残しておくと自分の目に触れるため精神的によくない。
  • 「あなたの発言に不快になりました」と言ってよい。しかし、相手のブログは他者の居場所であるから他者のブログ、SNS、ブックマークでコメントしない。自分のブログやSNSの投稿で述べること。大切なことは「あなたが不快です」と言わないことふたつの発言は同じようで全く違っている。後者の「あなたが不快です」は人格否定。相手もひとりの人間であり感情がある。個を尊重する。人格や属性(人種、見た目などを含みます)を攻撃をせずに、発言した内容に絞り込み、自分の現状と見解を正直に述べる。感情的にならない
  • 自分の発言を守るためであれば、相手をブロックすることは問題ない。むしろ防衛のためにブロックは必要。ブロックする勇気を持つ。
  • どうしてもやばい人間に遭遇したら運営側に通報。場合によっては第三者や法的な措置をとる。しかし、いたずらに法を振りかざしてはいけない。まず対話を尊重すること。「対話は議論ではない」ことが重要。海外のような訴訟は物事をエスカレートさせるだけで根本的な解決にはならない。しかし対話できない相手と関わるのは不毛。まず相手にしない。ブロックするか、執拗であれば通報する。
  • はてなの「読者購読」は、お金を払っているわけではないので「購読」という言葉自体がおかしい。したがって拘束力はない。自由意志で読むこともやめることもできる。読者購読の拘束力はない。読みたいものを読めばいいし、読みたくなければやめていい。購読を解除すると、ねちねち絡んでくるような人間とは関わらない。
  • 過剰な被害者意識を持たない。被害者意識は物事を歪めるし、不要な怨嗟を生じさせる。もしブログをやめたとしても誰かのせいにしない。自分の人生は自分で決める。当事者意識を持つ。
  • いいね!もスターもブックマークもアクセス数もたかが数字でしかない。よいものを書き続ければ必ず一定の読者に読んでもらえると信じること。読者数を増やすことを目的にしない。
  • そもそもはてなのようなブログサービスは営利企業によって運営されているわけだから、ブログ全体のPVを延ばして有料サービス(PRO)に登録してお金を払ってもらうことを促すのは当然。しかし、はてなのためにブログを書いているのであれば「ブログの奴隷」にすぎない。お題に縛られる必要はないし、書きたいときに書きたいことを書けばいい。頻度は関係ないし、高速インターネットの時代にコンテンツの表示速度が重いなどはどうでもいい。
  • 「いつも訪問してくれるから」という忖度は無意味。他者に依存すること、特に共依存の関係になることは、自分のためにも他者のためにもよくない。
  • 多くの炎上発言は夜中に集中する。夜の書き込みは過激化するので注意すべき。ツイッターの場合は夜の戸締まり(鍵付きにすること)は有効。場合によっては非公開にする勇気を持つ。
  • 多くのインターネット上の炎上は2週間以上は続かない。
  • 自分のブログも他者のブログも、悩んだら距離を置く。時間が解決することがある。
  • ブログを閉鎖するときは、とりあえずバックアップを取っておく読み直したり、新しいブログと合体させて復活させることが可能。人生はやり直せないが、ブログはやり直せる。しかし過去に固執するようであれば完全消去すべし。振り返って懐かしむために過去があるのではない。過去は未来に成長するためにある。
  • どんなに不快な経験も、嫌な人間とのつながりも、最終的には人生の一部。過剰に悲観しない。だからといって美化もしない。なかったことにもしない。
  • 鈍感であること、スルー力を鍛えること、むだに競争しないことが柔らかく生きるコツ。ブログやSNSも同様。
  • ブログやSNSをやめても構わないが、人生を途中でやめてはいけない。自分を傷つけること、あやめることを禁止する。生きていればなんとかなるはず。

何かの参考になればよいと思って書きましたが、書き終えてみると独白を曝け出しただけで、まったく参考にならないかもしれません。いくつになっても分からないままの発展途上の人間です。自分は「未完成の連続体」のようなもので、1万文字もの分量のテキストを書いても完成に至りません。

したがって、このようなブログ論をアップデートしながら、自分という存在を随時更新していこうと考えています。