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つぶやきのまとめ。とりとめのない思考を書き綴っています。

村上春樹さんの『猫を棄てる』を読んで、もやもやしたこと。

猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book)

近所の本屋が全滅してしまったので、ほとんどの書籍をAmazonで購入しています。しかし、自粛期間ということもあってAmazonで購入することを控えていました。

自粛だからこそ読書という考え方もあるかもしれませんが、書店に行くのであればともかく、配達するひとのことを考えると、注文が増えればCOVID-19に感染するリスクが増えるわけで、それってどんなもんだろうか?と。考えすぎかもしれませんが、なんとなく。

東京では昨日、47人の感染者が発表されました。

この数字自体がストレートに信じてよいものか疑問なのですが、明らかに二次感染が起こっている印象を受けました。東京アラートが解除されたとはいえ、ほら言わんこっちゃない、という感じ。やれやれ。

そんな中で、久し振りにAmazonに注文した書籍が、村上春樹さんの『猫を棄てる』とカミュの『ペスト』です。どちらも自粛期間に読みたいと思ったのですが、いまはやめておこうか、と考えていた本です。

「あれーこんなに薄い本だったのか!」と届いて驚いたのが、村上春樹さんの『猫を棄てる』なのですが、読んで考えたことを書きます。

書店で見たら、買わなかったかもしれない。

そもそもぼくは村上春樹さんのファンです。

ファンなのだけれど、なぜか最近は熱烈に購入する意欲が薄れてしまいました。なぜだろう。よく分かりません。この本が発行されたことは知っていたのですが、すっかり忘れていたほどです。なぜこのタイミングで購入したかといえば、ネットであるかたの書かれている『猫を棄てる』の書評を読んだことがきっかけでした。

このエッセイで村上春樹さんは、亡き父親との葛藤と和解の関係と、ふたつの猫に関する記憶を交えながら回想されています。ネットで読んだ書評では、自分の父親との関係をオーバーラップさせて感動的な文章を綴られていました。その文章を読んで、ぼくは揺さぶられた。

ところが、実際に昨日Amazonから本が届いて、短かったのであっという間に読んでしまったのですが、うーんと首を傾げました。というのは、少しもこころに響かなかったからです。むしろ何か村上春樹さんに対する反感のようなものがあった。どういうことなのか。

率直にぼくが感じたことを述べるならば、村上春樹さんは、まだ父親を許していない、そして許していない自分さえ許していない、結果として書きたくないものを書こうとしていてムリがある、と感じました。

というのは、この本には「わからない」「ねばならない」という文章を含めて、否定形・疑問・義務の言い回しが多く使われているという印象を受けたからです。その文体であらゆるものを「拒絶」している印象があります。読者すらも拒絶している。亡くなった父親の話をするのだから推測して語ることが当然かもしれませんが、あまりにも窮屈です。ぼくの読後感にすぎませんが。

身内について書くことは難しいと、ご自身で書かれていますが、その難しさ自体が全体からぷんぷん漂っていて、しかしながら、それをきれいにまとめようとしているところが好きじゃない。「一時期は断絶状態にあった父親のことを、こんなにきれいにまとめるべきではなかったのではないか」と感じました。

身内について書いた文章で思い出したのですが、たとえば哲学者の中島義道さんは著書で自分自身の家族について暴露ともいえるぐらいに語って、徹底的に批判しています。

さすがにここまで書くのはどうか、と思うぐらいの勢いで語っていて、彼の著作は注意して読まないと毒にやられる可能性が高いのだけれど、逆説的に、ひりひりするような家族愛に対する飢餓感と、家族に向けた愛情をぼくは感じました。といっても最近書かれたものは、やや落ち着いてしまってつまらないのですが。いや、それは失礼かもしれません。

どの著作が、ということはなく、彼の哲学は「どうせみんな死んでしまう」という諦観に根ざした悲鳴です。現実社会に生きる人間としては、その哲学は生きづらくするものだと思うけれど、真の「哲学者」としての凄みがあります。哲学の「研究者」という、スタイリッシュさがぜんぜんない。ここまで考え抜くようなことは一般人はやらないだろう、一歩間違えると狂気の世界に入り込んでしまう、といった感じです。その過激な哲学で家族を語るのだから、これはついていけない、とさすがにビビりました。

それから、鈴木涼美さんの文章も思い出しました。

彼女は高学歴で日本経済新聞社に勤めながら、実はAV出演の経歴があり、夜のお仕事をされていたというかたです。しかし『身体を売ったらサヨウナラ』を読んで、あったかい気持ちになりました。いろいろと派手な生活をされていても家庭的な女性なのではないか、と思っています。

エッセイに書かれているお母さまの話し言葉は、現実にも記述された通りであったことをツイッターの写真で知りました。お母さまの手書きのメッセージをツイッターで紹介されていたのだけれど、その文体はそのまま鈴木涼美さんの文体でもある。きっと、お母さまを愛していらっしゃったのだろうなあ、と。

では、村上春樹さんはどうか。

ぼくが『猫を棄てる』を読んで感じたのは「父親に対する残酷さ」と「自分の酷さをメタファできれいにまとめるような陰湿さ」ですね。

そもそもですね、この本は「父親の事例検証」と「猫の記憶」が並列で書かれています。

多くの読者は「猫」が取り上げられただけで、ほんわかしてしまうかもしれません。捨てられた猫が自分たちよりも先に家に戻っていた、木に登って降りられなくなった猫が夜が明けたらどこかへ行ってしまったというエピソードを読んで、やっぱり村上春樹さんの文章っていいよねー和むよねー、と思うかもしれません。

しかし、本当にそうなのでしょうか。気持ち悪くないですか?この話。

海岸に猫を棄てたあとで、自転車に乗って父親と息子(村上春樹さん)は一直線に帰宅します。ところが家に入ると、そこに棄てられた猫がいた。この猫は異世界の穴ぐらをくぐり抜けて、人間を嘲笑うような存在にもみえます。あるいは、木の上に登って降りられなくなって翌日には消えた猫の話もあるのですが、消えた猫は異空間を通じて地上に降りたのではないか。空を飛んだかもしれない。化け猫か。

もちろんぼくの読み方が穿った読み方だと思います。けれども、どのように解釈しようと読者の自由であり、むしろぼくは一般的ではない解釈に挑戦したいと考えています。ちなみに「ほんわかするねえ」という読み方も、ぼくはできます。

とはいえ、最も大きな問題だとぼくが考えるのは「父」と「猫」を並列して描くことで「父」=「猫」というメタファを機能させてしまう可能性がある描写方法です。ここで作者として明言するのではなく、暗喩として読者に「そうも読めるよね」と委ねている。

つまり「得体のしれない不気味な猫=自分には分からないことが多い父」という回路をつなぐことを、読者にほのめかしているわけです。作家として明言していません。ぼくはその書き方が、作家として姑息だと感じました。

父親がうざいのであれば、うざいといったほうがスッキリします。自分で未解決な問題の解決を読者に委ねているのは酷いでしょう。そもそも父親の事実確認を編集部に依頼しておきながら理解しようとしていないし、この文章から感じられる限り歩み寄ってさえいないと「ぼくは」感じました。

もちろん「身内のことについて書かない村上春樹さんが、ここまでこころを砕いて書こうとしているじゃない。感動するよ。あんたの読み方がおかしい」という批判もあると思います。しかし、父親との問題は自分で解決すべきだろ。話はそれからだ。それに身内の問題を、このような形で出版すべきなのか?

騎士団長殺し』という村上春樹さんの長編小説では、メタファの危険性をファンタジーめいた設定で描かれています。ほんとうに危険なのは、村上春樹さんが使うメタファではなかろうか、と思います。

ぼくには80年代の呪縛から解かれて、やっとみえてきたことがあります。村上春樹さんはオシャレな文体のスタイリッシュな作家ではない、ということです。

むしろ人間に対する愛情全般に巨大な欠落があり、人間性に問題がある冷酷な作家で、とんでもない暗闇を抱えたひとりの卑屈な人間である、と。しかし、その意味において文学的であり、すぐれた小説家なのかもしれません。

そうであれば、ぼくはもっとその暗闇に対峙すべきではないかと考えます。

ものすごく余計なお世話で僭越なことを書きますが、父親を猫になぞらえて喜んでいる程度では甘い。というよりも、村上春樹さんのファンのひとりとして納得できない。

『猫を棄てる』には消化不良と物足りなさを感じました。きちんと父親に向き合えば突き抜けられるはずなのに、暗喩に逃げているところが歯がゆい。猫を引用すればアクセスが上がるのはSNSの世界だけだと思う。

父親について語るのであれば、猫を道具に使わないでほしい。タイトルだって「猫を棄てる」じゃない。「猫が戻る」かもしれない。猫を棄てるではなく、本を出すことによって村上春樹さんが書きたかったのは「父を棄てる」だったのではないか。

ここで「そういえば“捨てる”ではなくて“棄てる”だな」と漢字の違いに気付いて調べてみたのですが、以下はギフトサイトの豆知識として掲載されているので国語的な裏付けが必要とはいえ、面白いことが書いてありました。

meguru-gift.com

一般的には「捨てる」ですが「棄てる」に使われている「廃棄(はいき)」の「棄」という漢字は上から、「子どもを流す」+「ゴミを押し流す道具」+「両手」という象形文字だそうです。これは怖い。つまり単純に自分の持ち物を断捨離でぽいするのではなく、「排除」の意味が強いそうです。この言葉を使っているだけでも、村上春樹さんの邪悪さ、冷酷さが感じられるのでは。

やはりこの本は、ほんわかする話ではないような気がするぞ?

さらに解釈するのであれば、この本によって文章で記号化することによって、村上春樹さんは、父と猫の過去を葬り去りたかった。それがこの本の目的であったように感じました。

なぜならば、一度棄てた猫が家に戻ってきたように、父親の存在も冥界から蘇る可能性があるかもしれないから。そしていちばん恐ろしいのは消えたはずの存在が、まだどこかで生きているかもしれない懸念でしょう。つまり、木の上に登って降りられなくなった猫が一夜明けると消えてしまったように。どこに行ってしまったのか。そいつは、

おまえの後ろにいるっ。

ひゃー!!!(と、怪談だったらここで大声があがるところ)。

しかしながら『ノルウェイの森』で村上春樹さんが書いたように、死は生のなかに存在し続けるものであり、時折聞こえてくる既に過去になったものの叫びに頭を抱えながら、ぼくらは生き続けることが大切だと考えます。

ちなみに書籍としての『猫を棄てる』はとても素敵な本です。高妍さんの挿絵は繊細で美しい(本と別に鑑賞したかった気がしないでもない)。小型で薄いサイズも魅力的で、村上春樹ファンにとっては書棚に置いて、時折読みたい本かもしれません。

ただ、ほんとうに村上春樹さんが父親のことを語ろうとするのであれば、たとえ受賞した作品であろうと、定価を付けて大手出版社から出す本ではなかったのではないか。自費出版とはいわないまでも非売品として、人知れず出すべき内容の本だと思う。

なぜなら身内に対する記憶や文章は、プライスレスなのだから。